◇


 そんなエピソードをスマートフォンでメモしはじめた直後にインターホンが鳴った。約束より30分も早く一人の後輩が現れた。「今から1時間かけて体を温めるつもりだったんだ。面白い話はあるのか」と文句をいった。ところが偶然とはあるものだ。私の配偶者のほうを気にしながら彼が切り出したのは、一種のVRの話だった。

 彼はこの日、東京・御徒町の歓楽街にある5階建てビルを訪ねた。いわゆる個室ビデオだ。案内された2メートル×3メートルほどの部屋でヘッドセットとヘッドホンをつけると室内の風景が消え、目の前に新たな世界が広がった。違うのは目と耳による情報だけだ。なのに、近づいてくる女性と目が合い、毛穴をのぞいているうちに、匂いまでするような気がしてきたという。

「怖いくらいに世界に入り込む」「没入感が半端ないんです」。彼は繰り返した。初めに受付で「知らない間に延長しないように気をつけてください」と言われた理由がわかったという。

  ◇
「野上君みたいに病気の人にはVRはすごくいいんじゃないの?」

 7人の仲間がそろってキムチ鍋と寄せ鍋をつつきだしたころ、大手出版社で編集者をしている女性が言った。自宅にいてもあちこちに行く体験ができるし、ふだんと違った感覚を味わえるから、という。確かにVRは小難しい使い方ばかりでない。後輩の例はちょっと極端だが、うまく使えば日常生活がより楽しくなるかもしれない。

 忘年会の音頭をとってくれた男性の「告白」には仲間がざわついた。色んなことで疲れた心をいやすために、毛足の長い「もふもふ」な犬の動画をユーチューブで午前3時まで見ているというのだ。「長い毛のついた置物をなでながら見ればもっといやされるのでは」。誰かが突っ込んだ。

 けっきょく3、4時間は騒いでいただろうか。彼らを見送り、静けさを取り戻した家で、病気のことをほとんど聞かれなかったのに気づいた。それぞれが人生の一幕を目に浮かぶように物語り、おかしみと少しばかりのさみしさを漂わせて去ってゆく。病気のことを一瞬だけ忘れてしまいそうな、VRのような一夜だった。

著者プロフィールを見る
野上祐

野上祐

野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は闘病中

野上祐の記事一覧はこちら