しかし、高級官僚が大臣の意向に反し、自ら管轄する業界に指示することは、公務員としての職務義務違反です。このことは、舛添氏の部下たちの働きかけもあったのでしょう、2008年10月10日、日本経済新聞が朝刊の一面で報じ、大臣に対して面従腹背の厚労官僚の姿が国民に曝されました。

 厚労省内の一部の官僚たちが舛添氏を応援したのは、07年8月の厚労大臣に就任後、誠実に勤務する姿が彼らの信頼を得たからです。

 当時、舛添氏は官僚の準備した資料に目を通し、自らの外部人脈も使い、厚労行政一般を勉強していました。官僚たちの説明を自分なりに理解し、わからないところは質問していました。地道な努力が舛添厚労大臣と厚労官僚の相互理解を深めたのです。

■医学部1500人増員の決定まで

 日本医師会など医療業界団体にとっての共通の敵は「規制緩和」でした。

 特に、医学部定員の増員は、将来的に自らのライバルを増やすことになりますから、絶対に承服できない話でした。

 彼らは舛添厚労大臣が、医学部定員増員を持ち出した途端に、一枚岩となって反対し始めました。

 こうした「抵抗勢力」に対抗するには、世論を味方につけるしかありません。舛添氏にとって幸いだったのは、06年の福島県立大野病院産科医師逮捕事件以降、社会の医療への関心が高まっていたことです。現に、07年に民主党が躍進した参議院議員通常選挙では、医療が主要なテーマとなりました。

 舛添氏が大臣に就任した時点で、すでに「医師不足」に対する社会的合意が形成されつつありました。

 当時の全国紙で「医療崩壊」、あるいは「医師不足」という単語を含む記事の推移を図に示します。舛添氏が厚労大臣を務めた期間は、「医師不足」や「医療崩壊」が連日のようにマスコミを賑わせていたことがわかります。

 さらに、08年10月には、東京都立墨東病院でたらい回しされた妊婦が死亡する事件が起こり、マスコミは連日のようにこの事件を報じていました。

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