6434人が亡くなった1995年の阪神・淡路大震災から、2017年1月17日で22年となる。兵庫県内を中心に建造物の倒壊や火災などで甚大な被害が出たが、再開発が進み、被災地の風景も様変わりした。そんな中、神戸から淡路島へと移され、震災の記憶を伝え続けている遺構がある。
神戸市長田区を襲った大火で焼け残った防火壁「神戸の壁」だ。高さ7.3メートル、幅13.5メートル、厚さ23センチもあるコンクリート製の壁は、1927年ごろ、公設市場の防火壁として建てられた。それから、45年の神戸大空襲、95年の震災と2度の大きな火災に耐え、現在は、兵庫県淡路市の北淡震災記念公園内で、その姿をとどめている。
なぜ神戸にあった壁が、淡路島に移設されたのだろうか。
「神戸大空襲に耐え、震災に耐えて残った壁です。壁を知って、見て、触れて、感じてください。平和と安全のためにお願いします」
17年1月8日、壁の前で行われた「ライトアップの集い」で、神戸市垂水区の現代美術家、三原泰治さんが訴えた。三原さんは、震災の約半年後、焼け跡に建つ巨大な壁に出合った。真っ黒に焦げた跡が残る壁が夕日に染まる様子に圧倒され、「形を残して後世に伝えていかなければならない」と強く思ったという。だが、壁はがれきなどと共に解体される予定だった。
三原さんは、震災の約1カ月後に発足し、代表も務める被災物の収集・保存を進める団体「リメンバー神戸プロジェクト」のメンバーらと、壁の保存活動に乗り出した。壁の所有者や行政に何度も働きかけたところ、所有者が公費解体の申請を取り下げた。しかし、復興作業が進む中、生々しい火災の跡を残す壁を見ると「震災を思い出す」と、撤去を望む声もあったという。
そんな中、保存に一役買ったのが、旧津名町(現淡路市)の町長だ。震災から3年後の1998年、再開発事業の着工直前に受け入れを表明し、淡路島への移設が決まった。99年、壁は旧津名町に移され、さらに09年、震災により生じた「野島断層」が保存されている北淡震災記念公園へ移された。崩れないように処理を施し、展示されている。