作戦に参加した日本軍機は350機で、その多くが生還した。しかし、搭乗員の大半が、後に繰り広げられた激戦で戦死する。終戦から63年(※取材当時)が経過し、生存する真珠湾攻撃の経験者は限られている。前田氏は、まさに生き証人といえる存在だ。

 前田氏は1921(大正10)年、福井県大野町(現・大野市)で生まれた。早稲田大学への入学を夢見ていたが、父親が亡くなったため、大学進学を諦め、中学卒業後、17歳で甲種飛行予科練習生として海軍に採用される。

「中学に来ていた陸軍の配属将校が威張っていたので、陸軍が嫌いになった。将来は海軍に入ろうと思っていたところ、海軍の将校に『うちに来ないか』とスカウトされたんです」

 3年間の猛訓練を耐え抜き、海軍航空隊の一員に加わった。運命を決定づけたのは41年9月18日。空母「加賀」の航空隊に選抜され、転属が決まったのだ。

「加賀の母港の長崎・佐世保に着任したのですが、すぐに鹿児島に行けと言われ、汽車に飛び乗りました」

 加賀に所属する航空隊は鹿児島県の鴨池基地などに集結していた。日本海軍はすでに加賀などの空母機動部隊による真珠湾攻撃を計画していたが、一般の兵士には知らされていなかった。

●目標知らぬまま魚雷発射の訓練 

 攻撃参加予定の各空母に所属する航空隊は、鹿児島の錦江湾で昼夜問わず激しい訓練を積み重ねていた。早朝に鴨池基地を離陸し、鹿児島市内の城山公園の上空で針路を変え、徐々に高度を下げながら、海上にある400メートル先の目標をめがけて魚雷の発射訓練をした。

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