「女の人って、普通、誰に言われたわけでもないのに、働き続けたいという現代的な考えと、『日本の女はかくあるべし』という古典的な考え方の間で揺れるんですよね。(中略)高度成長期に生まれて、ドラマに出てくるのも良妻賢母の肝っ玉母さん。自分の家庭もそうだったし、そういうものだと夢に描いてきたわけですからね」(注1)
永瀬正敏と結婚したときには仕事をやめるつもりだったとも語っています(注2)。小泉今日子には、専業主婦になることへの拒絶感はありません。
2009年に書かれたエッセイには、つぎのような言葉が見えます。
<二十代の私は大人になることをひとつずつ許してゆく時期だったような気がする。黒いレースの下着を着けることを許す。紫のアイシャドーを許す。恋をすることを許す。友達とお酒を飲みに行くことを許す。許したものが心の贅肉となってそれが身体にも纏わりつき、黒いレースが似合う人に少しずつ近づいていく。
三十代になると、二十代で身につけた贅肉が気になりだす。無駄なものばかり身につけて生きてきたのではないか? と、自分が手に入れてきたものを否定したくなる。大人になりたいと思っていた気持ちが通用しなくなり、そろそろ本当に大人にならなくちゃダメだと焦ってしまう。三十年も生きていると失敗も挫折も一通り味わう。それを人のせいに出来るほど子供じゃないから女の心は少しトゲトゲする。今まで好きで着ていた洋服がすべて似合わなくなってしまっているのではないかと不安になり、何を着たらいいのかさえわからなくなったりする。女として迷子になったような感覚がある。そうすると当たり障りのない無難なものを選ぶようになる>(注3)
30代の小泉今日子は、「当たり障りのない無難なもの」を着るという姿勢を取るようになっていました。これは、「どれだけ冴えたアイテムを消費するか」によって他人から抜きん出る態度の対極です。このころ――1990年代後半――の彼女が、「消費文化」とは縁遠いところにいたことがわかります。SATCを夢中で観ていた同世代と、小泉今日子は根本からちがうのです。
世紀末から2000年代にかけては、「小泉今日子と異なるタイプの女性たち」が、時代の先端を走っていました。小泉今日子がこの期間、「渋い」存在に見えたのはその影響です。
アイドル時代の小泉今日子も、時流の渦に飲まれているように見えながら、冷静に状況を見さだめていました(助川幸逸郎「もしも『なんてったってアイドル』を松田聖子が歌っていたら」dot.<ドット> 朝日新聞出版 参照)。彼女には、一時のトレンドに巻きこまれない独特のバランス感覚があるようです。
2008年のリーマンショックによって「消費文化」が衰退しはじめた現在、スポーツカーを乗りまわしたり、高級ブランド品で身を飾ったり――そういうライフスタイルは、「時代おくれ」と見られるようになっています。必死で「恋愛」を追い求めていた私の知り合いの女性たちも一変しました。彼女たちは今では、
「実際的な面と精神的な面、両方で助けあえるパートナーがいればいい」
といったことを口にします。「恋愛」と「消費」をむすびつけて考えなくなったのです。食文化にこだわっている人々も、「シャンパンを飲んでキャビア」という方向は求めません。「自然食」とか「地球にやさしい食生活」とかが、現在では「フード・エリート」のあいだでトレンドです。
2008年と2010年に、SATCの映画版が作られました。TVドラマ版同様、「消費文化」志向の強い女性層をターゲットにした内容です。とくに2010年公開の第二弾は、主人公四人組がファーストクラスの飛行機でドバイに乗りこむというストーリーでした。その時代遅れな「バブル感」は、アメリカでも日本でも、共鳴を呼ぶどころか非難・失笑を浴びました。この事実からも、先進諸国が足なみをそろえて、「消費文化」の終焉を迎えていることがわかります。