批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ポスト・コロナ社会をめぐる議論が始まりつつある。鍵となるのはオンライン化をめぐる新しい格差だろう。
この数カ月で人々の身体感覚は大きく変わってしまった。かつて集まることは価値だった。いまや身体的接触そのものがリスクとみなされている。その結果世界中で力を強めているのが「社会活動の多くはオンラインで代替できる」という信念である。たしかに感染症への恐怖と社会維持の必要性を両立させようとすれば、そう信じるしかない。実際ネットさえあれば、仕事も教育も友人関係も維持可能なように見える。
けれどもそれは幻想にすぎない。社会はリアルなインフラがないと回らない。みなが身体的接触を避ければ避けるほど、接触を担わざるをえないひとの負担は増える。
日本でも「介護崩壊」や「保育崩壊」という言葉が囁かれている。DVや児童虐待はネットでは救えない。授業がオンラインばかりになれば、生徒や学生の心理的ケアを担う専門家が必要になるだろう。米国ではすでに、新感染症での黒人の死亡率が白人やアジア系の2倍近いという報道が現れている。黒人に公共交通機関や食料品店の従業員が多いためだと分析されているが、これなどはまさに新たな格差の雛形だといえる。「オンラインになれる人々」が「オンラインになれない人々」にリスクを押しつけ、自分たちだけ安全圏にひきこもる──私たちがいま感染防止の名のもとに作りつつあるのは、そういう社会である。
かつて、ネットがあればみなが金持ちで平等になれるという幻想を指すものとして「カリフォルニア・イデオロギー」という言葉があった。それに倣えば、みなが接触のリスクを避け、そのくせ安全な社会関係だけは維持できるという現在の幻想は「コロナ・イデオロギー」とでも呼ぶべきかもしれない。
人間と人間の接触は感染症がなくてもそもそも面倒で危険なものだ。その面倒に直面しないコロナ・イデオロギーは健全とはいえない。ポスト・コロナ社会が、接触のリスクをみなで分け合う社会になることを望みたい。
※AERA 2020年5月4日号-11日号