批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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コロナ禍の緊張が緩みつつある。5月に入って各国がロックダウンの解除に動き始めた。日本でも緊急事態宣言の発令からひと月が経ち、感染者数の増加は明確に鈍化している。政府は14日夕方、39県で宣言を解除した。
かねてから本欄で記してきたように、筆者は、感染防止を掲げた監視権力の拡大やオンラインへの過剰な依存に対して慎重な立場である。それゆえこの傾向は望ましい。
だが問題もある。感染者数の増加は確かに抑えられた。しかしそれは1カ月間、「接触の8割削減」を目指し社会全体が無理をした結果である。実際はウイルスが消えたわけでもワクチンが開発されたわけでもないので、接触が回復すれば感染者数は増えるに決まっている。その第2波にどこまで耐えられるだろうか。
筆者が懸念するのは、医療崩壊よりも社会的パニックのほうである。国内ではすでに差別や嫌がらせが報道されている。今後はそのような混乱の抑制も課題になる。日本はそもそも欧米に比較して感染者数も死者数も桁違いに少ない。検査も進んでいない。欧米はピークを越えたと判断して方針を変えたのだろうが、日本はまだピークに達していない可能性もある。それなのに緩みだけが広がると、第2波の到来でかえってパニックが拡大する危険がある。
したがって、政治家や専門家は、緊急事態宣言の解除は収束を意味するものではなく、これからもコロナは怖いし感染者も増えていくこと、しかしそれを織り込んで日常の回復に向かう必要があるのだということをきちんと市民に説明しなければならない。マスコミも、不安を煽るだけのセンセーショナルな報道は自制すべきだ。
この数カ月で世界が知ったのは、人類がいかに感染症に対して無力かということである。ワクチンを作るのは年単位の時間がかかる。できることはといえば外出制限やマスクや手洗いぐらいで、100年前と変わらない。東京はニューヨークのようにならなかったが、その理由だって本当はわからない。私たちにこれから求められるのは、そのような無力さと共存するタフさだろう。
※AERA 2020年5月25日号