半世紀ほど前に出会った98歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
* * *
■横尾忠則「年を取り現世とあの世両方で生きる」
セトウチさん
今日、自宅とアトリエの本と写真などの資料をごそごそ、引っぱり出しながら見ていたら、もう何十年も前に買ったり、集めたりしたものばかりで、本などはいつか読むだろうと思って買ったまま手つかずになった名著や(僕にとっては)宝物ばかりがどっさり出て来て、何十年も味わうことのなかった興奮に酔いしれています。その数が物凄(すご)く多く、1日に10冊読んでも残った時間では到底読み終わらないものばかりです。
そんな本を読まないまま放置していたことが大きい罪のように思えてならないのですが、中には、読まなかったが、この本の内容はすでにマスターしてしまっているように思える本もあります。読んだ本、読まなかった本、全てが僕の人生の時を過ごしたものばかりで、永久にこれらの本と共にこれからも生きていきたいと思えてならないのです。こんな未練は女々しいのですが、全てノスタルジーとして、魂に記録、記憶されています。
ですから、これから先のそう長くない人生の中で、できれば一冊ずつでも読んでいきたいと思っています。また、絶対手に入らない外国の画集なども沢山(たくさん)ありますが、いずれ死んだあとには散逸してしまうことでしょう。これらの画集に掲載された作品一点一点に、僕の視線と霊感(インスピレーション)が焼きつけられて、まるでイコンのように化しているはずです。持って死ぬわけにはいきませんが、でも救いはあるのです。それは、現世に存在した全ての物はあちらの世界にも存在しているということです。そして必要に応じて、それがビジョン化するのです。だから手ぶらで着の身着のまま逝っても、もし望めば、想念によって、そのまま現世の記憶も物質化して再現できるのです。
とはいうものの、いったん死んでしまうと、こちらの事物は全て剥製(はくせい)品同様のもので、向こうで、それらをわざわざ見たいとか、所有したいとかいう気持ちは失(な)くなるので、逝く時はいっさいの未練もなく逝けばいいということです。読めなかった本も、向こうで読めるんだから、向こうでの愉(たの)しみにすればいいと思います。だけどですね。逝ったら逝ったで、わざわざ現世の剥製化された記憶や思い出に浸(ひた)ろうなんて気は全く起こらないと思います。現世は現世、向こうは向こうで、はっきり分けなければならないという気持ちが向こうで起こるはずです。