ハードボイルドがわからない。


 パソコンに初稿を打ち込む手を休め、市川は書斎の外、二階のベランダに出た。
 架空の物語を染めあげてゆくのは、とっくに飽きていた。初期は純文学、そこからハードボイルド小説に転向し、売れないのであやしいペンネームでポルノを書いたこともある。今はフィクションを極力排し、取材したことをリアルに復元して構築する、ドキュメンタリーノベルを標榜する。
 今作の取材、――いよいよ、いつ、どこで、どんな設定で、どの銃器を使って鹿内を殺害するか。
 中央線の最寄駅から路線バスで十五分の距離にある自宅。真夜中のベランダで、煙草を吸う市川は、さりげなく住宅街の道路を見下ろす。
 最近は気配が薄くなったが、刑事に張りつかれたことがある。いくつかの殺人事件で合同捜査班ができ、その捜査線上に浮かんで執拗な内偵を受けた。市川は、常に強固なアリバイを用意しているから逮捕されることはないが、ひそかに接触してきた捜査一課の刑事に作家としてどうしても取材したいことがあり、ついに一緒に酒を飲んでしまった夜、夜中零時を過ぎた鯨飲のあげく真実を告げそうになり、慌てて口を噤んだことがあった。
 それでも、殺しを請け負い、題材として、ノベルにしてゆくのはなぜか。
 書斎のパソコンに戻ると、メールを受信していた。
 期日厳守。
 ただそれだけのメール。エージェント、石田和行。市川が今回の殺し要請を実行する旨申し出た返信だ。殺害期限まで、あと三日。
 石田とは、もう五十年のつきあいになる。舗道の石やブロック、コンクリート片が飛び交う新宿騒乱時、最も攻防の激しい通りにいた市川は、恐怖を覚えて喫茶店に逃げ込んだ。そこで、騒ぎとは何のかかわりもなく司法試験の過去問暗記にいそしむ石田と出会った。隣のテーブルには、博多から東京の高校に転入してきて歌手をめざす玉淀ひかるがいて、怯えの激しいひかるを市川と石田がなんとなく守ってやる雰囲気になり、三人の付き合いが始まった。
 ひかるは一時ミュージカルのダブ主役に抜てきされるスターとなり、同じスターダンサーと結婚したが、人気が落ちるとともに離婚。今では演劇スクールのインストラクター、駅前蕎麦店のパートで食いつなぎ、ミュージカルの早くオーディションに挑みつづけている。
 石田は、三十代前半で東京地方検察庁の特捜部に抜てきされた。が、庁外に出張って聴取した代議士の妻とダブル不倫騒動を起こして失職、妻も娘も去っていった。その後弁護士に転じて反社勢力の顧問に就いたが組長が服役中にその妻と通じたという噂が流布して、反社勢力からも追われ、今では、セキュリティ会社のウラ顧問、企業や高額所得者がオモテでは処理できないトラブルをひそかにドブさらいして食いづなぎ、しのび寄る沈黙の殺人者、サイレントキラーに襲われ、糖尿病と格闘している。
 市川は、三十代で純文学作品を二作上梓した。『愛の底』『愛の底 蟻のままで』それ以来、変名で世に出た。ポルノ『同時多発エロ』『定額制 夜這倶楽部』を最後に書けども書けども出版されなくなった。中学教師を定年まで勤めた妻、弥生のヒモ同然に暮らして、そのうち、誰からも忘れられた人になった。
 忘れ去られた存在。その哀しみ。悔やしさ。ひかるも石田も。
 月に一度か二度、新宿のYで忘れ去られた者同志で飲んだ。ある時、石田が市川にオファーした。
「ドブさらいした奴がいるが、これが凶暴で手ごわい。市川だったら、小説の作りごととして、始末するまでどんな設定を考える?」
 市川は、物語としてではなく、自分が実際に殺すとしたらどんな策略や道具を使うか考えた。興奮した。
 いかなる理由があっても、殺人。その前、実行、その後。これをリアルに描写すれば、そのまま息を飲むほどの劇になる。作りものの物語は、一切必要ない。
 市川は石田に成功報酬と事実をわずかに装飾するだけのノベル化を約束させ、自ら決行した。
 これまで石田から十五名のオファーを受け、十一名を葬り、五名のケースをノベル化した。『サイレントキラー』シリーズとしてVまで執筆しているが、出版されるまではもう一歩だ。
 作家として、もう一度陽の目を見る日は近い。そう信じて、VIのために、明日は、鹿内雪広を葬る最適の場所を選定してくる。
次のページ 標的が、そこに、いる。