

半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「祝50回 “絵の年長者”より愛を込めて(ハート)」
セトウチさん
この往復書簡の前々回で、僕が「小説の筆を捨てて画家宣言して下さい」と言った時、セトウチさんは「間もなく死んでゆくのでしょう。今から絵描きになるようにすすめて下さいましたが、ちょっと遅すぎはしませんか?」とすすめたことが遅いと、おっしゃいましたが、突然、女学生みたいに「ワーイ! ワーイ! やっちゃったぁ!」とは一体何が起こったんですか。
「小説家瀬戸内寂聴がペンを捨てて、絵筆を買いこんだ」ことが大変動だとはしゃいでおられますが、こんなこと位、大変動でも大革命でもレボリューションでもなんでもないです。
僕が前々回で口がすっぱくなるほど絵を勧めても全く反応がなかったのに、この躁状態は訳わかりませんね。絵を描くのに、そんなに大騒ぎしなくていいです。黙って静かに人知れず、描く方が格好いいです。まあ、セトウチさんのことだから、静かにはできないかも知れませんが。
どこからか「若いハンサムの絵描き」を連れてこられて、そのハシャギ振りが透視できます。ハッハッハッハ。先生まで用意しちゃったんですか? 今さら、言っても無駄かと思いますが、絵は教わるものではないのです。絵は技術ではなく99歳の心と魂で描くものです。教わるということは、いい絵を描こうとする欲がチラホラ見えます。意欲はいいとしても、99歳のセトウチさんにはいい絵を描こうという気持は逆にストレスを生みます。岡本太郎さんの「下手でいい、美しくあっちゃいけない」でいいのです。教わることは慣習に従うということです。絵は慣習をぶっ壊すことです。反対の生き方はしない方がいいと思いますよ。セトウチさんは慣習を否定してきた人でしょう。慣習などに従わずに、生きてこられました。下手で、素朴で、純粋で、無垢で、無心で描くべきです。教わるということは、それらを全部拒否することになります。