黒川博行・作家 (c)朝日新聞社
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※写真はイメージです (GettyImages)
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 ギャンブル好きで知られる直木賞作家・黒川博行氏の連載『出たとこ勝負』。今回は、黒川氏のギャンブル遍歴について。

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 黒い川を渡って博打(ばくち)に行く──。

 小学生のころ、父親に連れられて、よくパチンコ屋に行った。玉を十個ほどもらい、背が低いのでひとつずつパチンコ台に入れてレバーを弾くと、たまに入賞して受け皿に玉が出てくる。それが少し貯(た)まるとチョコレートやみかんの缶詰に換えるのがうれしかった。子供がパチンコをしても、なにもいわれなかった。

 高校二年で麻雀を憶(おぼ)え、高校三年からまたパチンコをはじめた。在学中はさほどでもなかったが、美大受験に失敗して晴れて浪人になると、毎朝十時前、浪人仲間がパチンコ屋に並んだ。開店するなり店内に走り込んで片っ端からチューリップを閉めていく。十台も閉めると、五十個の玉(百円だった)が三百個くらいにはなったから、それを原資に打ちつづける。なぜかしらん、わたしはパチンコが弱く、勝つことはほとんどなかった。

 昼をすぎると、仲間が集まって近くの雀荘やビリヤード場に行く。わたしは麻雀でパチンコの負けを補填(ほてん)したが、そんな自堕落な浪人が美大に行けるはずもなく、二度の受験に失敗したわたしは父親の内航タンカーに乗せられた。そうして、あまりの重労働に音をあげて、もう一度だけ受験する、と船を降り、それまでのデザイン科志望から彫刻科に変えると、運よく合格した。

 晴れて美大生となったわたしは麻雀に耽溺(たんでき)した。寝ても覚めても麻雀牌が頭の中でガラガラまわっている。どこかで麻雀の場が立つと聞くと、なにはともあれ参加した。戦績は七勝三敗くらいのペースだったろうか。レートは高いほどよかった。

 よめはんとは学校のそばの雀荘で知り合ったが、けっこう強かった(負けたときの金払いもよかった)。あれから五十年、いまのよめはんの麻雀は女性プロ雀士よりまちがいなく強い(それはなぜか。博打麻雀と競技麻雀は似て非なるものだから)。

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