しかし、一緒にやっていきたい気持ちがある、ということに焦点が当たってしまうと、「だったら、過去のことは忘れて(水に流して)、前に進むしかないじゃないか」という、これまた一見、正論の考えの圧力が繭子さんの中で高まってしまいます。
忘れたり、水に流すことができるなら、繭子さんはこんなに苦しまないはずなので、それは現実にはできないことなのです。忘れることはできない、一方、勝也さんをあきらめることもできない、それこそが繭子さんが一番苦しいポイントなのです。
苦しんでいる繭子さんにしてあげたいことは何でしょうか?
「少しでも、気持ちが和らぐようにしてあげたい」
と勝也さんは言いました。
「お店」自体が絶対的に重要なのではなくて、「デートで行った」という二人にとっての意味づけが大事なように、繭子さんの苦しみに対して具体的に何をするか以前に、そのことがどういう意味づけに受け取られるかがのほうが大事です。
勝也さんが言った「少しでも、気持ちが和らぐようにしてあげたい」というのは、一見いい話ですが、繭子さんの気持ちを楽にして、自分も楽になりたいという気持ちが透けて見える気がします。そこまで悪く捉えなくても、少なくとも勝也さんの気持ちをコントロールしたいように見えます。
「つらいことは半分に、楽しいことうれしいことは2倍に」という結婚式の定番のスピーチがありますが、私はちょっと違う気がします。楽しいことを共有するのは比較的容易ですし、共有に失敗してもそれほどのダメージがありません。より共有しにくいものを共有する関係が特別な関係です。つまり、共有しにくいつらいことも共有して2倍にするのが、自分が相手にとって特別な存在であるという証だと思うのです。
もちろん、つらい時間を共有するというのは、繭子さん勝也さん夫婦が陥ってしまったように傷つけ合うことではありません。繭子さんのつらい気持ちの構図を理解し、どうしようもない気持ちと状況に一緒に浸ってみることです。
一緒に浸るというのは、説明が難しいのですが、3ステップの例で説明してみます。
例えば、コロナ禍で夫婦で外出禁止になったことを想像してみてください。「つらいね」と言い合うのは比較的容易だと思います。第2段階は、自分は外出禁止ではないけど、相手は外出禁止という状況で、同じような気持ちで「つらいね」という感じです。第3段階は、相手だけが自分のせいで(例えば、自分の不注意で相手がコロナに感染してしまった)で、第1段階と同じような気持ちで、「つらいね」ということです。
多くの人は第3段階は抵抗があって言えないか、「つらいね」と口では言うものの、第1段階とは違う意識で言います。
それほどに、つらさを共有するのは難しいのですが、それをしてくれる関係だからこそ、自分が特別な存在なのだという意味が形成されるのだと思います。(文=西澤寿樹)
※事例は実例をもとに再構成しています。