この記事の写真をすべて見る
日本の研究分野が世界に遅れを取ることになったのは、「ワンチーム」や「絆」を好み、他人と「ずれる」ことを許さない日本人特有の性質に原因がある。コロナ時代の生き方は、むしろ「ずらす」ことが重要かつ有用だと、思想家の内田樹さんは岩田健太郎さんとの共著『コロナと生きる』(朝日新書)で指摘する。困難な時代だからこそ求められる「生きる」ことに対する価値観とは?
※第1回対談「医療費削減の先にある恐怖…アメリカのパンデミックが収束しない理由を内田樹と岩田健太郎が指摘」よりつづく
* * *
■他人とずれてよし
内田:前回の対談で、「誰かが得するなら、みんなで損をしたほうがマシだ」と考える人がいる、というお話をされましたが、そういうふうに「一蓮托生」に持ち込んで、最終的に誰も責任をとらずに終わるというのって、日本人の得意技のような気がしますね。「ワンチーム」とか「絆」とかいう言葉を東京五輪絡みでよく聞かされましたけれど、限られた環境でみんなが生き延びようと思うなら、他人と合わせるんじゃなくて他人と「ずれる」のが基本なんですよね。たぶん岩田先生もそうだと思うけど(笑)、僕もすぐ多数派からはずれる人なんです。生まれてからずっと「樹は変だ」と言われ続けてきた。親にもそう言われたし、先生にも言われたし、友だちにも言われた。とにかくすぐに「浮いちゃう」んです。それでずいぶん叱られたし、いじめられたりもした。
でも、しかたがないんですよね。「みんなが平気にやれること」が僕にはできないんですから。身体が拒否するので。でも、僕一人が他人と変わったことをしていたからと言って、マジョリティの邪魔をしているわけじゃないんですよ。ただ隅っこにいて、自分がやりたいことをこそこそやっているだけなんだから、放っておいてほしいんですよ。でも、放っておいてくれないんです。必ずそばにやってきて「一人だけ変なことをするのを止めろ」と干渉してくる。どうして、主流派の方たちは「ずれた人」にこれほど不寛容なのだろうと久しく不思議に思ってきたんですけれど、あるときにわかりました。人と違うことをやってる人は査定になじまないからです。
前にも書いたことですけれど、院生の頃に、フランス文学会でレヴィナスのことについて発表しようと思って指導教官に相談したら、「止めたほうがいい」と言われた。理由を尋ねたら「レヴィナスの研究をしてる人間が他にいないから」って。日本では知られていない哲学者ですから、ご紹介するつもりで学会発表しようと思ったわけですけれど、誰も知らない哲学者について研究発表しても査定対象にならないと言われた。先行研究がいくつもあれば、それと照合して出来不出来について査定ができるけれど、先行研究ゼロの分野だと、発表そのものが「査定不能」とされる。「業績が欲しければ、みんながやっていることをやれ」と諭されました。