人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、猫との思い出について。
【写真】必死すぎる?「餌やり禁止」の看板を撤去しようとする猫
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タヒチといえば、ゴーギャンの絵を思い出す。あの絵の中に猫はいたか。たくましい褐色の肌をした女達にまじって犬の姿はあったが、猫はいなかった気がする。
旅先を選ぶ私の目安は、猫に出会えるかどうか。猫がのんびり道を横切っていく場所は平和である。
私がタヒチのボラボラ島を訪れた頃は、まだ直行便もなく不便だった。
四〇年ほど前の話だからたいへんで、日本からなぜかニューカレドニアへ行き、そこからタヒチ島の首都へ。バスと船を交互に乗り継いで、やっと着いた気がする。
いい加減くたびれ果てた所で、紺青の海が迎えてくれた。ボラボラ島は海の上にコテージが出来ていて、野趣のある屋根と建物に向かって一棟ずつ、岸から簡単な橋がかかっている。
旅好きの仲間五人のうち女は一人なので、一棟を一人占め。決められた棟に橋を渡ろうとした。
その時、気配を感じた。猫だ。じっと私を見ている。猫好きはその気配を見逃すことがない。三色のまじった日本の三毛猫風な猫だ。
「あとで遊びにおいで!」
部屋に入ると疲れがどっと出てそのままベッドの上で寝てしまった。
床の下を優しく波が揺さぶる音に目覚めると、ちょうど夕焼けが華やかな衣裳を脱ぎ捨てて薄墨色に変わろうとしていた。時計を見ると夕食の時間が近づいている。
慌てて着替えをし、桟橋を渡ってレストラン棟へ出かける。その時もふと視線を感じた。先刻の猫だろうか。姿は見えないが、声をかけた。
「食事をしたら帰るから待っておいで!」
すでに闇に包まれた桟橋の上に何かがうずくまっている。待っていてくれた。
コテージのドアを開くと、猫は当たり前のように中に入って来た。私はレストランから持って来たごちそうを部屋の隅におく。すぐには食べようとしなかったが、私の顔を見、食物の匂いを嗅いで、やがて少しずつ食べ始めた。