――すると、西牟田さんが仕事のペースを落とさずに育児を元奥さまに任せっぱなしだったことが離婚の主たる原因だったということですか?

西牟田:もうひとつ、大きなネックになっていたのは経済状況です。当時、僕は生活費も含めて月に10万円しか家に入れていませんでした。全然足りないのはわかっていたんですが、そこは僕なりに考えがありました。浮き沈みの激しい仕事だということはわかって結婚してくれたんだから、お金が入らないときがあっても一緒に頑張ってほしい。それに今、本を書くために全力で頑張っているんだから、今こそ支えて欲しいって。ちなみにその10万円も、僕の実家から援助されたお金を充てていたんです。こうした状況は元妻も知っていたと思います。一度、「コンビニでバイトしてでもいいから、もっと家にお金を入れてほしい」と言われたこともあったのですが、僕は「そんなこと言われても……」と正面から向き合わなかった。それともうひとつ、家の中に本を置きすぎていたことも彼女の気持ちを損ねた原因だと思います。

――そこから離婚までの経緯はどういったものだったのでしょうか?

西牟田:娘が3歳だった13年の12月ごろには、元妻から「今後のことについて話し合いを持ちたい」と言われるようになりました。このころはちょっとしたことでお互い気持ちが高ぶってしまうありさまでした。同年の12月末には、朝におせち料理の準備をしていた元妻が全然起きてこない僕の態度に怒り、おせちの材料を持ったまま、娘を連れて実家に帰ってしまいました。このときは年明けまで5日くらい帰ってきませんでした。

 そして、翌年1月に元妻が実家から戻ってくると、もう離婚の意思は固まっているようでした。「別れの条件」を突き付けられて、そこには「親権は私(元妻)が持つ」「月に2回は娘に会わせる」など具体的な取り決めが書いてありました。「公正証書にしたいから確認しといて」と言われたんですが、僕は離婚するつもりはなかったので、まともに取り合わず、返事をしませんでした。すると予約をとっていて、ある日公証役場に行くことになりました。ここからはもう僕の意思とは関係なく、別居は避けられない状況になっていきました。元妻は3月末に合わせて引っ越し業者を手配して、自分の持ち物を実家に送るなど着々と準備を進めていました。僕も最後はどうにもならないと諦めて、3月下旬には娘との最後の思い出作りとして、遊園地や観光地などに行ったりしました。別居当日は、引っ越し業者が家財道具を運び出すのを、ただぼうぜんと見ていた気がします。そして最後、元妻は私の前で3歳の娘を連れて出ていきました。

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