1922年の創刊から数々の著名人が連載してきた「週刊朝日」。名作誕生の裏側を文芸ジャーナリストであり、週刊朝日編集部OBの重金敦之氏が語る。
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私が朝日新聞社に入社したのは1964(昭和39)年で、配属された「週刊朝日」編集部は非常に活気がありました。部数は60万部以上あったはずです。その年の冬に、「新日本名所案内」という企画で、池波正太郎さんと3泊4日で金沢へ取材旅行に行くことになりました。
池波さんの作品は読んだことがなかったのですが、下手に取り繕うこともせず、自然体でいこうと決めました。取材旅行を通じて、肌や波長があったとしかいいようがありません。以来、仕事でご一緒することも多く、池波さんの食べ物への執着がただものではないことを知りました。同時に天からの恵みである食材への感謝や、家庭料理の重要性、料理人への「気配り」を知り、エッセー「食卓の情景」(昭和47~48年)の連載をお願いしました。昭和48年が明け、連載が終わるのをまって、小説の連載をお願いしました。
真田藩の物語はお得意の分野で、「真田一族の興亡がテーマなら3年くらいの長期連載になってもいいかな」と相談され、「真田でお願いします」と即時に応えていました。こうして『真田太平記』の連載が決まったのです。当初3年の予定が9年になり、NHKの大河ドラマの原作にもなりました。売り上げにも貢献したわけで、編集者冥利に尽きました。
池波さんとともに印象的な著者が松本清張さんでした。松本さんの作品といえば『点と線』はリアルタイムで読んでいたこともあり、「若い、馬力のある記者を」とのリクエストがあったらしく、私が選ばれました。『黒の様式』(昭和42~43年)を担当しました。松本さんは「小説にはリアリティーが重要だ」としつこく言っていました。小説のリアリティーとは、生活感ということだと思います。松本さんは最後の最後まで「小説」を追求した人でした。