人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、緊急事態宣言下で国会議員が銀座のクラブを訪れていた問題について。
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三人の自民党の国会議員が深々とテレビの画面で頭を下げている。真ん中に松本純元国家公安委員長、田野瀬太道文部科学副大臣、大塚高司衆議院運営委員会理事の離党と謝罪の会見である。
いうまでもなく、この緊急事態宣言の最中に夜十一時頃まで銀座のクラブへ行っていた件である。
最初は松本純氏一人といっていたのに、実は三人だった。その理由を松本氏は二人をかばって自分一人が責任をとることにしたと言い、あとの二人はどうしたものか、ずっと悩んでいたという。松本先生のかばって下さった気持ちを考えてのことだったという。
この人たちの眼中に、私たち国民はない。お互いをかばいあい、できるだけ事なかれ主義で終わることを考えているだけだ。今回公になったことについても、たまたま運が悪かっただけと内心思っているだろう。
情けない。こんな人たちを選んだのは国民だ。責任は私たちにもある。
なぜこんな神経でいられるのか。私なりに考えてみた。地元民や秘書、まわりの人々から「先生」「先生」と持ち上げられるのも一因ではないか。自分たちは国民の代表ではなく、特別に選ばれた人間だから許されるという甘え。画面に映った三人はお互いに「松本先生」「大塚先生」と呼びかわしていた。
以前から不思議だったが、日本の政治家は政治家どうしが「先生」と呼ぶ。何の矛盾も感じずに。まわりが言うからそれが常識になっている。名は体を表す。言葉は実体の表現だ。
まずお互い「先生」というのをやめてはどうか。まわりの人にもそう呼ばせない。それぞれ立派な名前をもっているではないか。先生と十把一絡げの方がかえって失礼ではないか。
先生とは自分より先に生まれた人、尊敬する人、職業なら学校の先生かお医者さんで十分である。
欧米の政治家はロン・ヤスを例に出すまでもなく、愛称で呼び合ったり、記者会見などでも、名前を呼ぶことが多い。