人間の寿命は生まれる前に定められているといいますが、努力次第で定められた寿命が延びるともいいます。次々とやるべきことが出てくれば、それを達成するまでは寿命が与えられるらしいですが、自己欲望のための努力ではなく、人のための社会的必然性という大義名分であれば延命されるとも聞いたことがあります。ということは、人間は自分の意志で生きているというより生かされているというべきかも知れませんね。
老齢になると長寿を願って、健康への努力や医療に頼る努力をしますが、もし与えられている命であれば、そんな自己執着などする必要はないということになりますね。養生だけに気をつけて、あとは自然体でいるのが一番かなと思います。死ぬ時が来れば、それはその人のお役目が終ったわけですから、ワーワー騒ぐこともないですね。セトウチさんみたいに「死にたい」なんて言わなくても、宿命がコントロールしているんだから、ほっとけばよく、成るように成らしてくれるはずです。でも最近は「百まで生きてみたい」と心変(こころがわ)りしてらっしゃいますが、そんな目標さえも持つ必要もないんじゃないでしょうか。「わしゃ、知らん」で、死ぬまで生きて下さい。
■瀬戸内寂聴「週刊朝日と私が同い歳、何という偶然!」
ヨコオさん
二人の週刊朝日に連載しているこの往復書簡が『老親友のナイショ文』という題がつき、速くも一冊の本になり、見本本が届きました。表紙絵はもちろん、天才画家の「横尾忠則」氏作であります。
表紙絵に鶴亀が描かれているのは、私の九十九歳という長寿を祝ったつもりなのでしょう。ところが、九十九歳は私だけでなく、この週刊朝日が私と同年の数え百歳になるとは、何という偶然でありましょうか。
表紙の帯に、横尾さんと私の写真が写っています。三部正博氏撮影の横尾さんは、深刻な表情をして、おなか痛に耐えているような、云(い)いかえれば、哲学的で深刻な表情をしています。私ときたら、篠山紀信さんに撮ってもらった絶品の笑顔で愛嬌(あいきょう)をふりまいています。篠山さんに撮ってもらうと、なぜか私は実物より数倍美人に写るので、篠山さんが大好きです。