芙美子が戦争に巻き込まれていくもう一つの背景には、雑誌や新聞といった活字メディアの思惑がある。当時、作家が戦地に赴くときの費用は出版社や新聞社が持つのが一般的だった。メディアは作家から寄稿された従軍記を掲載することで恩恵を得ていたのである。『ナニカアル』の中には、「週刊朝日」と「サンデー毎日」が芙美子の原稿を取り合う場面もある。

「芙美子が37年に初めて戦地の中国・南京に赴いたときは毎日新聞の特派記者でしたが、その後、毎日との関係が悪化し、朝日新聞に乗り換えた。朝日は当時、部数で負けていた毎日に追いつこうと必死でしたが、芙美子の『漢口一番乗り』などの戦地ルポで販売実績を大きく伸ばし、社用の飛行機もたくさん購入できたそうですから、芙美子はかなり貢献したはず。朝日などの活字メディアに利用された側面もあるということです」

 当時、内閣情報部は作家を動員すると同時に、雑誌向けに執筆依頼をしてはいけない作家のリストを作成し、各社に通達。巷には戦意高揚雑誌があふれていた。

「軍が紙の原料となるパルプの供給を押さえていたのが大きかった。雑誌や新聞は、軍部に都合のいい記事を書かないと紙が配給されないという事情がありました。一方で、国民は情報に飢えていたので、戦意高揚雑誌が多く発行されたのでしょう」

 週刊朝日も戦時中には、芙美子だけでなく多くの作家・著名人による戦争賛美の文章を掲載した事実がある。その責任は重い。

「私は作品の中で芙美子に、『私たちは署名原稿を書いている。だから、原稿に責任を負うのよ』と言わせました。当時の雑誌の編集長はいなくなっても、作家の書いた文章は後世まで名前が残る。その点で、作家は雑誌や新聞の記者よりも不幸を背負わされている。ただし、どんな事情があったにせよ、一度書かれたものは書いた人の責任です。メディアも作家も利用されることがある。だからこそ、過去の記事の検証は大切です」

 一方で、芙美子の従軍には「半強制」という面もあった。特に、42年から43年にかけて陸軍報道部の要請に応じて嘱託記者としてシンガポール、ジャワ、ボルネオを訪問した際は、事実上の「徴用」に近いかたちで、訪問先も陸軍がコントロールしていた。

次のページ
「兵隊を賛美しすぎた」との思いが戦後の激務につながったか