好き。寂しい。つらい。

 そうした感情を、そのまま歌う。感情言葉のパッケージ。だから誤解しない。誤読できない。

 かつての邦楽ヒット曲は、けっして「好き」「会いたい」の一次感情を連呼していたわけではない。ただ「悲しい」のではなく「あなたが時計をチラッと見るたび泣きそうな気分になる」(松田聖子「赤いスイートピー」)のだし、「切ない」のではなく「見覚えのあるレインコート/黄昏の駅で胸が震えた」(竹内まりや「駅」)のだった。

 歌に背景がある。意味の「幅」がある。誤解のしようがない一次感情とは、ずいぶん遠い地平で歌っていた。

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」

 この歌の激発をもって、現代人の感情が劣化したと、つい断罪してしまいたくなる。だがわたし(古いほう、男性)は、人間はそんなに変わらないんじゃないか、とも思うのだ。

 ではなにが変わったのか。

 メディアだ。

 好き。会いたい。寂しい。

 日本人は大昔から、その感情を歌にしてきた。世界最古の小説・源氏物語も、主人公の光源氏は、好き、会いたい、悲しい、ぼく泣いちゃうと、歌にして連呼している。しかし、その歌に選ばれる言葉は、ダブルミーニングがふつうだ。二重、三重に意味をとれるしかけがある。掛詞を、必ず入れる。読み手に、想像させる。

 歌は、唐紙に書かれたり、紙に香りがついていたりする。丁寧な毛筆で心を込めて書いたり、わざとぞんざいに書き殴ってあったり。書き手の意図を想像させる手がかりを、たくさん残す。

■解像度の低いメディア

 手書きの紙→活版印刷→電話→メール→SNSやツイッター、LINE。

 感情を運ぶ「容れ物=メディア」は、テクノロジーとともに“進歩”してきた。情報量は、格段に増えた。と、される。

 ほんとうか。わずか十数文字で、ときにはスタンプだけでメッセージを伝えるLINEと、紙や筆記具や字を工夫する手紙とを比べると、どちらが情報量豊かなメディアかは、明らかだろう。LINEやツイッターは、じつは解像度の低い、粗雑なメディアなのだ。

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