解剖学者 養老孟司 (c)朝日新聞社
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 3月25日に東京五輪の聖火リレーが始まった。しかし、本当に開催できるのか。解剖学者の養老孟司さんに話を聞いた。

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 私の場合、最初から東京五輪というものに気乗りがしていませんでした。石原慎太郎さんが東京都知事のときにオリンピックを東京に招致する構想が打ち出された時点で、やめればいいと思っていた。あれも老害の一つだったんじゃないでしょうか。政治家たちが五輪に固執しているのは、1964年東京五輪の成功体験が残っている年齢層の願望が強く働いているのではないかと思っています。

 前回の東京五輪開催時、私は20代でした。一番印象に残っているのは、エチオピアのマラソン選手アベベの姿です。ところが何年か後、五輪が開催される競技場のトラックにポリウレタンを何層構造かにして埋め込んで、反発を良くするうんぬんという話になってきた。ちょうど、筋肉増強剤などを使ったドーピングの取り締まりが厳しくなったころです。人体への規制を厳しくする代わりに、周りの設備などを改良することで記録を更新しようとし始めた。水泳の水着に対する議論もありましたよね。

 人工的なグラウンドによって世界記録を出すとか、あまり意味がないような気がしますね。いつの間にか、どこからが自然で、どこからが人工なのか、線引きがわからなくなってしまった。

 解剖学からみると、五輪型の身体の使い方はノーマルではないのです。ヒトの身体は競争するようにできていません。虎が追いかけてくるわけでもないのに必死に100メートルを走ってどうするんだと、いつも思っています。

 教科書などで皮膚を剥いだ人体の絵を見たことがありますよね。様々な部位の筋肉が描かれていますが、これらの大きさはひとりでに決まっているのです。ですが、五輪選手はその標準から外れている。例えば、水泳選手は肩幅が標準よりも広いなど、特定の筋肉が大きくなってしまっている。

 私が適当な運動だと思うのは、本来の筋肉の大きさが保たれ、まんべんなく体を使っている状態。人間の身体は自然が時間をかけてつくり上げてきたわけで、人が意識して設計したわけではない。それを現代人は歪めてきた。五輪を見ていると、現代人の歪みの一部を見ている気がします。

 世界一になるために一生懸命に練習する選手は「自分に勝つ」と、自分自身までをも敵にしてしまっている。身体がもう嫌だって悲鳴をあげているのに、なぜそこまで無理をしなければならないのか。よくわかりません。

(本誌・岩下明日香)

週刊朝日  2021年4月2日号