読売巨人軍の名誉監督である長嶋茂雄氏には現役時代、数々の名勝負があるが、高校時代には埼玉県営大宮球場でこんな“一発”を放っていた。
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埼玉県営大宮球場のバックスクリーンへ飛び込んだ一発から、長嶋茂雄(77)はスター街道を駆けていった。佐倉一高(千葉、現・佐倉高)時代、公式戦唯一の本塁打である。
1953年8月1日。千葉県と埼玉県それぞれの4強が集まり、計8校で夏の甲子園出場一校を決める南関東大会の1回戦だった。相手の熊谷(埼玉)はその2年前、夏の甲子園で準優勝という名門だ。エースは2年生の福島郁夫。右の速球派で、のちにプロの東映(現日本ハム)に進む。福島が当時を振り返る。
「前日の練習を視察に行ったOBが、『4番の長嶋だけは気をつけろ』と教えてくれたんです。絶対に抑えてやる、と思いましたね」
二飛、左前安打ときて、6回の第3打席。佐倉一は0-3で負けていた。カウント1-1からの3球目。福島の直球は通常、自然にシュートして右打者の内角に食い込む。それを狙った球が、変化せず、真ん中高めへ。福島が言う。「ドバーンといかれた」。
ライナー性の打球が、そのままバックスクリーン下へ飛び込んだ。「弾道が低くて、まさか入るとは……。まるでピッチャーが投げた球のようだった。『ストライク』という感じでバックスクリーンへ届いてしまった」(福島)。
佐倉一の監督だった加藤哲夫も、こう振り返る。「打球が見えないぐらい速かった。ビューンと伸びました。ダイヤモンド一周が、いま思えばプロに入ってからの走り方と同じだった。淡々と回ってましたよ」。
佐倉一のマネジャー、蜂谷善樹が記入したスコアシートが残っている。この本塁打を示すダイヤモンドだけが濃い字で書かれ、欄外には力強い筆記体で「350 Feet in Back Screene」とある。蜂谷は佐倉中時代からの長嶋の同級生だったが、この試合の数年後に交通事故で亡くなった。
結局、佐倉一はこの1点だけで、初の甲子園出場はならなかった。翌日、朝日新聞の千葉版には、「長嶋 大本塁打放つ」の見出しが躍った。
長嶋は著書『野球は人生そのものだ』の中で、「そう新聞に載ったことで、無名の高校生が世に出るきっかけとなった」と言及している。すぐに巨人などプロ3球団が長嶋のもとへあいさつに訪れた。ただ、長嶋の父利(とし)は「大学を出てからでも遅くない」との考えだった。
佐倉一の監督だった加藤は当時、立教大4年生。ケガで1年生のうちに野球部を辞め、ずっと母校の指導にあたっていた。加藤は長嶋が1年生のころから、大学の野球部の同期や先輩に、「ガッツとセンスが素晴らしい。ぜひ長嶋を立教に」という話をしていた。その動きが、大宮での一発で本格化した。立教の関係者が長嶋家を訪れ、父を口説く。長嶋はその冬、立教野球部のセレクションに合格した。その後の飛躍は誰もが知るところだ。
長嶋といえば「4番サード」が代名詞だが、この試合の1カ月半前までは遊撃手だった。加藤が語る。「3年生になるころに体が急激に大きくなり、ショートの動きが厳しくなった。エラーも続いて、部長と『サードとショートを入れ替えよう』という話をしてました。ただ主将だし4番打者だし、決行するきっかけに悩みました。それが6月14日の練習試合で4失策。ここしかない、と。次の練習試合から『4番サード長嶋』にすると、打撃にも迷いがなくなった。長嶋自身ものちに、『ショートのままなら、いまの人生はなかった』と言ってましたね」。
大宮の一戦は長嶋にとって、父との特別な思い出でもある。町役場の収入役で多忙だった父が、初めて観戦に訪れた。加藤が語る。「息子を緊張させまいと、長嶋には知らせず、外野で観戦されていたそうです。進学が決まって、お父さんと『神宮へ観戦に行きましょう』って約束したんですけど、かないませんでした」。
長嶋が大学1年の6月、父は逝った。あの大宮球場での試合が、最初で最後の観戦となった。
※週刊朝日 2013年6月28日号