

1979年、ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)でデビュー。80年代アイドル全盛期からスターとして君臨し続ける男・田原俊彦。今月、77作目のシングルで、自身の60歳記念ソングの「HA-HA-HAPPY」をリリースするなど、今も輝くトシちゃんが作家・林真理子さんと対談。デビュー当時を振り返りました。
【田原俊彦 ジャニーズ事務所に直談判、ジャニーさんに「スターになりたい」】より続く
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林:あのいちばん忙しいころ、田原さん、睡眠時間3時間だったんですって?
田原:ピンク・レディーは3時間しか寝てないとかいうから、「そんなことあるわけねえだろ」と思ったら、ありましたね。ハハハッ。
林:どこで寝てたんですか。
田原:どこって、合宿所ですよ。女のところで寝てないですよ、たまにしか。ア~ハッハッハッ。
林:原宿の合宿所ですね。私はそこの裏に住んでたんです。
田原:あ、そうなんですか。僕はあそこの合宿所にハタチから6年間いたのかな。朝8時ぐらいに仕事に行って、テッペン(午前零時)回って帰ってきて、それから合宿所抜け出して遊びに行ったりしてました。抜け出さなきゃ6時間寝られたのに、遊びに行っちゃうから3時間しか寝られない(笑)。でも、元気いいからさ。まだ22、23歳とかの子どものころですよ。遊びを覚えて調子こいてたら、バブルに入っていくんです。
林:もう、最高じゃないですか。
田原:バブルのときの田原俊彦はすごかったですよ。毎夜毎夜マハラジャ(東京・麻布十番にあったディスコ)に行ってましたから。
林:お金は腐るほど入るわ、女の子もワンサカ寄ってくるわ、そりゃ楽しいですよね。
田原:男がいちばん生き生き美しく輝くのって、27、28、29じゃないかな。そのとき僕はバブルと共存してたんで、そりゃもう楽しくて。ケータイがない時代だから、おちおち家にいられないんですよ。寝なきゃいけないのに「何か起きてるんじゃないか。カワイイ子が来てるんじゃないか。よし、行くぞッ!」みたいなことの連続。