太宰府天満宮・楼門
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北野天満宮・三光門
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亀戸天神社の境内に立つ5才の頃の道真公像
亀戸天神社の境内に立つ5才の頃の道真公像

 学問の神さまといえば、天神さま、つまり菅原道真公ということはよく知られている。ただしこれは江戸時代以降、寺子屋が多く作られていった過程で生まれてきた信仰である。また明治時代以降は、政治の中心が天皇へと移った関係から忠臣として取り上げられることとなったため、一層注目が集まったと思われる。

【写真】5才の頃の道真公像

 さて、それではそれ以前、天神さまといえばどのような神さまだったのだろう。

●大宰府への左遷が天神さまへの道へ

 菅原道真は、平安時代初期の頃の官僚で若い頃から才能を発揮、第59代・宇多天皇に重用されのち次代・醍醐天皇の時代に右大臣に昇進する。300年近く続いていた遣唐使(最初は遣隋使)の廃止を提案したのも道真である。右大臣への昇進後間も無く、醍醐天皇に対する謀反の疑いから九州・大宰府へと左遷された。これは、左大臣であった藤原時平の讒言(ざんげん/偽りの告げ口)を醍醐天皇が信じたためであったということが定説となっている。左遷からわずか2年後、俸給も従者も与えられない中、失意のうちに大宰府で亡くなった。享年59、延喜3(903)年2月25日のことである。

●道真怨霊のやったこと

 道真が有名になっていくのは、ここからだ。道真の死から5年後、道真の左遷のきっかけを作ったとされる藤原菅根が雷に打たれ死去、翌年には藤原時平(享年39)が病死、その後も関係していたとされる官僚の死去や、自然災害が続き、ちまたでは道真の祟りだという噂が広まりだしていた。追い討ちをかけるように醍醐天皇の東宮・保明親王が21歳で早世、続いて皇太孫とした慶頼王も5歳で夭折(ようせつ)するに至り、醍醐天皇は道真を右大臣に復し、贈位もするなど慰霊に務めた。道真の死去から20年が過ぎた頃である。

●雷神・道真の登場

 道真の死去から27年となる延長8(930)年6月26日、平安京・内裏の清涼殿で長く続く干ばつに対し雨乞いをするべきかどうかについての会議が行われていた。ここに落雷が直撃し、多くの公卿たちの衣服に火がついた。特に、大宰府で道真の監視を命じられていたとされる藤原清貫は火に巻かれて死亡、そのほか幾人もの死者を出し、醍醐天皇は難を逃れはしたが、これを間近で目撃した衝撃から体調を崩し3カ月後後に崩御した。この時の惨状がいくつもの書物に記録されているが、火柱の中に雷神となって降り立った道真を見たというものまで現われている。

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