哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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再び五輪中止を求める。「その話はもう飽きた」という読者もおられるだろうが、このまま五輪強行開催を座視することは私は市民として耐えがたい。最後まで五輪中止を訴え続けたい。
5月に弁護士の宇都宮健児氏が五輪中止を求めるオンライン署名を始めた。35万筆が集まった時点で都知事宛てに署名簿が提出された。だが、都からは何の反応もなかった。署名簿をどう扱うかについて話し合いさえ行われなかった。開示請求に都はそう回答した。
7月に入って、飯村豊氏、上野千鶴子氏ら13人が呼びかけて五輪の開催中止を求める別のオンライン署名が始まった(この署名には私も呼びかけ人として参加している)。
首都圏では感染が再拡大している。第5波の到来も懸念されている。ワクチンの接種率も先進国最低レベルのままである。ワクチン不足で多くの自治体で接種予約がキャンセルされた(私もキャンセルされた)。選手団は次々と来日しているけれども、感染者が続出している。入国者と一般市民を完全隔離するはずの「バブル方式」がまったくの空語であることはメディアが報じている。このような公衆衛生上の危機の中で、五輪の「安心・安全」をどうやって保障する気なのか。説得力のある科学的根拠はいまだに誰も示してくれない。
だが、安倍政権以来、為政者が「政治的判断について合理的根拠を示さない」ということに日本人はもうすっかり慣れてしまったようだ。日本人はある時点から政治家に「自分たちを説得してくれ」と求めることを止めてしまったらしい。「自分が下した判断についてその根拠を示さないでも罰されない者」のことを「権力者」と呼ぶ、ということがいつの間にか日本社会の常識に登録されてしまったからだろう。
政府が国民的反対を押し切ってまで五輪の強行開催に固執するのは、そうすれば、自分たちがどれほどの権力を持つか、国民がいかに無力かを思い知らせることができると思っているからである。
今回の五輪が無理押しできるようであれば、これ以後はもうどのような無法についても、国民は黙って従うだろう。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年7月19日号