なぜだかうまく説明はできないが、母をこよなく大事に思っていた父に彼女のこうしたおぞましい一面を知らせてはいけない、当時は直感的にそんな気がしていた。

 これ以来、ときどきタバコのお灸事件は起きた。きっかけはいつも他愛ないことだった。

 彼女の機嫌が悪いと、きまってお灸をすえると怒鳴り散らした。そのたびにわたしは泣いて謝り、母は舌打ちをしながら実際に火を押しつけるのは諦めた。

 いま思うと、このときになにがなんでも折檻を阻止しておいてよかったと思う。もし万が一、言われるがままに手を差し出していたら、おそらくタバコの火どころでは済まなかったはずだ。母は歯止めが利かなくなり、よりいっそう残酷な事態に陥っていたことだろう。

 そうしたらきっと、わたしたち母娘はいまよりもっともっと苦しむことになっていただろうから。

この時期の体験のせいで、わたしは大人になったいまでも怒っているひとを見るのが大嫌いだ。

 社会の現場でも誰かが怒られているシーンに遭遇すると、たとえ自分が怒られているわけでなくとも、その場にいること自体がつらくて耐えられない。

 大声を上げて怒りをあらわにするひとを見ると、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。

 これを一種の<PTSD=心的外傷後ストレス障害>と呼ぶのだろうか?

 誰にも詳しく聞いてみたことはないけれど、母の折檻がわたしの内側に大きな影響を与えたことはどうやら間違いなさそうだ。