東京五輪はコロナ対策だけでなく、様々な問題を抱える大会だった。現役のアスリートが意見を言いにくい風潮もその一つだ。AERA 2021年8月16日-8月23日合併号で、元ラグビー日本代表で神戸親和女子大学教授の平尾剛さんが語る。
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楽しもうにも楽しめない。そんな五輪でした。
僕は開催に反対を言い続けてきましたが、本来、五輪を批判することとアスリートのパフォーマンスを楽しむことは十分両立するはずです。でも、どこか興ざめしてしまっている自分がいました。
日本のメダルラッシュも、そもそもコロナ禍で予選への出場や事前合宿ができないケースもあった他国・地域との公平性が担保されない大会なので、素直に喜べません。
そのメダルラッシュを報じることで「スポーツウォッシング」(政府や権力者などが自分たちに不都合なことをスポーツの喧騒=けんそうで洗い流すこと)にひたすら加担しているメディアの姿にも憤りを感じます。
今回の開催と引き換えに「スポーツという文化」が失ったものは大きい。
スポーツは勝つことだけが目的ではありません。スポーツを通じ、例えば社会を生き抜く力や相手に対する敬意など様々なことを学び、人間的な力を育む。それが文化的な価値だと僕は思っています。
ただ今回、感染が拡大し、人々の暮らしや命が脅かされる中、それに目をつぶって開催されたことで、「結局、勝利至上主義か」というさめた見方が広がっていると感じます。
近代スポーツの始まりは19世紀の終わり。音楽や美術の歴史に比べたら浅いんです。近い将来、スポーツ文化が途絶えてしまうかもという危機感さえあります。
残念なのはスポーツ関係者から五輪をめぐる問題について声が上がらないことです。
現役のアスリートには「意見を言わせるのは酷」という考えもありますが、僕はそうは思いません。開催の是非についても、「五輪に人生をかけてきた、医療従事者の苦労はわかるけどやっぱり僕は出たい」と思うなら、その気持ちを言葉にすべきです。パフォーマンスがアスリートの仕事。それ以外は「余計なこと」。そういう環境で長らく育ってきている。主張することを良しとしないスポーツ界の空気から変えていかないといけない。スポーツ界には圧倒的に「言葉」が足りません。