32歳を迎えたある日、会社からオファーがあった。
「正社員として総務部で働きませんか」
一度チャンスを逃した正社員への道が開いた。だが「憧れの正社員」も、毎日、自分の前を通り過ぎる起業家に比べると色あせて見えた。
「大企業の総務部員。私でなくてもできる」
自信に満ちあふれて輝いている、あの人たちのように、自分にしかできない仕事で世の中の役に立ちたい。受付でローンチパッドの生中継を見ながら、起業家への道を懸命に考えた。そして一つの答えにたどり着く。
「私の強みは12年間、一つの仕事を続けたこと。日本一の受付嬢かもしれない。その経験を世の中に還元できないだろうか」
橋本に言わせれば、受付の仕事は「めっちゃアナログ」。来客に手書きで受付票を書いてもらうのも、内線で社員を捜すのも、客を応接室に案内するのも全て。1日が終われば山のようにたまった票のデータをパソコンに打ち込む。どれも面倒で骨の折れる仕事ばかりだ。
「これってプロダクトで解決できるんじゃない?」
IT企業の受付を渡り歩いてきた橋本は、この業界の思考法を身につけていた。非効率な作業をプログラミングでデジタルに置き換え、効率を上げると同時にデータを取り、データを分析してさらに効率化する。一般には「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」というが、IT業界では「プロダクト」と呼ぶことが多い。
■突然の誘いにあぜん
どんなプロダクトがあれば受付を効率化できるか。橋本にはそれがイメージできた。だが、プロダクトを作る能力が自分にはない。ある社長の言葉が頭に浮かんだ。
「一番大切なのは、エンジニアを集める前に、優秀なプロマネを見つけることだ」
プロマネは「プロダクトマネジャー」の略。複数のエンジニアをまとめて、開発を指揮する役割だ。橋本は一人の男にSNSでメッセージを送った。
「まゆタンって、プロマネだったよね?」
まゆタンこと真弓貴博は橋本がミクシィの受付だった時、同社でウェブプロデューサー(プロダクトマネジャーと同義)として働いていた。真弓が返事をすると、橋本がすぐ反応した。