「あっ、そう」
でガチャンと電話を切る音。また別の日、
「今、凄い火事なの。紅蓮(ぐれん)の炎が物凄くきれいなのよ。そこからは見えないわよね」
かと思うと、「人間死んだら、どうなるの?」と深刻な電話も掛かる。
「生きている時の想念がそのまま具現化します」
「アラ、嫌ね。無になりたいわ」
「生きている間に無にならなきゃ、死んでからは無になりません。セトウチさんは僧侶じゃないですか。死の問題を解決するのが仏教ではないんですか」
と、仏教者のセトウチさんをいびる楽しさ。
言いたいことが何でも言えるセトウチさんがいないのは淋しいけれど、不思議と鬼籍に入ったセトウチさんは僕にとっては死者でなく生者だ。
50年間のおつき合いは、僕の友人知人の中でもセトウチさんひとりじゃないかな。まあその間、よく遊びましたね。知り合ってすぐ、雷雨の中の後楽園でアメリカのグランド・ファンク・レイルロードのロックコンサート。岡山ではゴルフ、温泉にも何度か、インドへも、僕の兵庫の郷里にも、宝塚歌劇も、天台寺にも行きました。妙な尼僧のインチキ膏薬で背中にヤケド、またインチキマッサージ師に大金をぼられました。
「親切でしたことが、文句ばかりがかえってきた。一度だってお礼を言われたことないわよ」
14歳年上の女性といっても99歳と85歳です。まあ表があれば裏のある気の遠くなるような長いおつき合いでした。これで終ったわけではありません。第二弾は広大無辺の地球の大気圏外での往復書簡が待っているというエンドレスです。
今朝の12日の新聞は各紙ともセトウチ特集です。セトウチさんが一番愉しみにしていらっしゃる日本国挙げてのセトウチ・デーです。そちらから見えますか。セトウチさんの死がお祭りのように踊っています。
実はこの原稿(書簡)は2本目です。1本目はちょっとカタ過ぎたので、この原稿に変更しました。「老親友のナイショ文」は終りますが、やや衣替えをして、セトウチイズムを残したまま、ナイショ文は継続されそうです。そんな中でまた何度か、セトウチさんへ書簡を送るかも知れません。現世にはもう執着はないと思いますが、まあ、暇な時には時々こちらも覗いて、浮世気分に浸って下さい。
ではSee you soonです。
※週刊朝日 2021年11月26日号