ある意味でセトウチさんとの親交はどこか空気みたいなところがあったように思う。というのは僕はセトウチさんに何かを求めるとか、目的を持った大義名分的なおつき合いをしていなかったので、その2人の間はいつも空っぽのような状態だったと思う。だからこそ50年も続いたんだろうとも思った。だけど、セトウチさんとの日常は空気みたいに軽い存在だったにもかかわらず、僕から離れたセトウチさんの人生は、何か業のようなどっさり積もった実に重い重量級の人生だったんじゃないかなと想像することがあった。

 セトウチさんのあの無邪気で人懐っこい振るまいの背後には、この重い業が全身にベタッと張りついていて、それから逃れるために、あのオポチュニストなセトウチさんが作られたような気がしないでもない。セトウチさんがガムシャラに私小説的な題材の小説を連発されるのは、その業から離脱するための手段で、自らの不透明なパンドラの函の蓋をこじ開けるように書きまくられたのも、ひとえに浄化作業だったのではと思えてならないのだ。何んといっても、終生セトウチさんにつきまとって一日も忘れられない、小さい子供を残して家を飛び出した、あの記憶が亡霊のように追いかけてくる、逃げても逃げても逃げ切れない業、それがペンを走らせた。小説を書いている瞬間が一番快感というのは、そりゃ、そうでしょう。書くのを止めた途端、セトウチさんを襲うのは宿命だったか運命だったか知らないが、セトウチさんが後天的に創造してしまった業の存在の仕業でしかないからだ。

 セトウチさんのありとあらゆる行動の側面に僕はベタッと張りついた業をみてしまうのである。セトウチさんの人懐っこい、無邪気で可愛い、親切で、話し好きで、気前のいい、陽気で、ポジティブな表面の背後には、逃れようとして逃れ切れない業によってセトウチさんをはがいじめしているように思えてならないのである。メディアに写るセトウチさんは、表のセトウチさんである。日常のセトウチさんの表情の中で僕は何度となく、遠くを見つめている暗い表情のセトウチさんを目撃している。

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