セトウチさんのセレモニィのような行動のほとんどは社会化されてしまう。あの得度にしても、井上光晴さんとの関係さえ、本来は隠蔽すべき事柄である。それをメディアを通じて公表するのはセトウチさんにとりついて離れない業のせいである。セトウチさんは時々、口ぐせのように、「成るようにしか成らない」とおっしゃる。「成るようにしか成らない」とは運命の要求に従う行為である。しかし、セトウチさんは運命に逆らうような行動に移される。運命に逆らうことは、「成るようにしか成らない」こととは反対の行為である。従って「成るようにはならない」のである。この論理はセトウチさんの読み違いである。

 セトウチさんの裏表のない人柄が好きだ、と先週の本誌のセトウチ特集で述べていた人がいたが、セトウチさん自身がそのような性格であろうと思うが、その性質の背後には自らの不誠実なあの行為が、その後の人生において誠実であろうとする行為の裏返しのように思えてならない。人間は誰しも誠実に生きることはできない。そんな人間のどうにもならない資質をセトウチさんひとりが体現して、それをわれわれにサンプルとして見せているのかも知れない。そういう意味では全身人間を生き切った人なのかも知れない。

 そんなセトウチさんの現在、「死んだらどうなる」かを、もう体現しておられるはずだ。向こうへ行ったら向こうの様子をこちらに伝える運動を起こしたいともおっしゃる。ぜひ、そうしてもらいたいと思うが、人間にとって死の壁はあまりにも高く厚い。この問題を解決するのが仏教の仕事である。「どうなるのか死んだら」という疑問をこちらにおられる間に徹底的に解明して欲しかったが、僕の知るセトウチさんは、死や骸骨など、僕の死にいろどられた作品を随分怖がられた。それは死に人間の本質があることを知っておられるためで、その本質に迫ることが怖かったように思う。

 今、セトウチさんは向こうでその本質と真正面から対峙しておられると思う。そちらには時間がないと思いますが、こちらではもう二週間が経ちました。

週刊朝日  2021年12月3日号

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