「あからさまに差別されたとかではないんです。ただいろんなところにボーダーラインがあって、『女子の仕事』と括られるものが多くあり、なぜそれをやらなくてはいけないのだろうと、不満というよりクエスチョンがいっぱいという状態になっていきました」
たとえばコーヒー。スタッフ一人ひとりの砂糖とミルクの好みを覚えるように言われた。新人の仕事ではあるが、それにしてもずっとしていた。
「自分の中で辻褄が合わないこと」がたまっていた時に出会ったのが、シス・カンパニーの北村明子社長。野田秀樹主宰の「劇団夢の遊眠社」解散後、野田さんと一緒に「NODA・MAP」を立ち上げ、2008年まで全作品を制作した敏腕プロデューサー。「ショウ・マスト・ゴー・オン」のプロデューサーでもある。
「NODA・MAP」第1作の「キル」(94年)で、瀧原さんは演出部スタッフとして参加した。ある時、北村さんに誘われ、食事をした。そこで、「これからどうしたいの?」と聞かれた。「いつか舞台監督、やりたいです」
なれるとは思っていなかったが、自分が舞台監督と同じところに立てば、男とか女とか言われなくなるのかもしれない。大きな夢を口にした。
■二人芝居でデビュー
「それなら、やればいいじゃない」。それが北村さんの反応。
「そうしたら本当に、舞台監督で呼んでいただいたんです」
95年、橋爪功さんと野田さんの二人芝居「し」が、瀧原さんの舞台監督デビューとなった。
舞台裏の差配だけでなく、スケジュール管理や外部との交渉、予算管理なども舞台監督の仕事だ。北村さんは、
「寿子ちゃんはとても優秀で馬力もあって、きめ細かさがあるんです。あの頃、舞台監督になる道筋にいる女性はいなかった。だから『やる気があるなら、やってよ』と言いました。大きな舞台でやってもらおうと思っていましたが、野田さんの判断もあって小さな『番外公演』からとなりました」
以来、年1本は舞台監督の仕事を依頼した、と北村さん。そうして仕事を積み重ねた瀧原さん、男女についての考えを切り替えた瞬間があったという。
30代、しかも女性の舞台監督だったから、舐められていると感じることもあった。そんな頃、ある現場で大道具さんに「昼の休憩、どうする?」と言われ、「食事にしましょうか」と返した。「『飯』って言われるより、気持ちいいね」と言ってくれた。