「ただ、文学座が金看板だったのは、俺たちの代の少し前まで。1980年前後は、小劇場ブームが始まっていて、他にも、テント芝居やつかこうへいさんの舞台もものすごく盛り上がっていた時期です。若い俳優は、そっちに魅力を感じている人がほとんどでした。夢の遊眠社の芝居を観に行ったとき、自分が文学座で学んでいることに、なんとなく引け目を感じていたこともありましたね」

 1年後、研修科生の10人に残り、ドラマ「太陽にほえろ!」のラガー刑事役で俳優デビューを果たした。研修期間中に、「絶対に文学座の座員になる」と心に誓った渡辺さんは、ドラマのプロデューサーに、「規定数の舞台に出ないと劇団員になる査定を受けられないので、最低限の舞台に立てるようスケジュールを調整してほしい」と直談判した。

「プロデューサーからは、『すぐスターになれるのに、舞台を優先させてくれなんて』と驚かれました。生意気なお願いにもかかわらず、発表会近くになるとドラマの中でけがしたり、出番が少なくなるよう調整してくれました」

 座員にこだわった理由は、小劇場ブームに乗って、研究生を辞めていく同期や先輩たちの前で、啖呵(たんか)を切ってしまったことがあったからだ。

「いろんな話し合いをする中で、『辞めるのも勇気だけれど、残って、自分のいる場所を改革していくのも勇気。俺は後者を選ぶ』って」

 デビューから40年が経つが、「あの啖呵のせいで、いまだに辞められずにいるのかもしれないです」と言って、照れ臭そうに頭を掻いた。でも、座員を続けている理由は、実際には二つあるという。

「一つは、一緒にやりたい先輩が大勢いたこと。当時は杉村(春子)先生と共演なんて考えられなかったけれど、生意気な盛りだから、先生がやっている芝居の台本を先に読んで、自分なりに演技プランを立てる。それから先生の芝居を観に行くと決まって打ちのめされた。完敗なんです。師匠筋だと思っているのは北村和夫さんですが、北村さんは、当時から、『親子役をやると体を壊す』と評判だった。角野卓造さんですら、北村さんの息子役をやったとき、一言一言ダメ出しされて声が出なくなったという逸話が残っているほどです」

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