──晋三氏が日本を右傾化させたのか、右傾化した日本社会の神輿に晋三氏が乗ったのか。
双方でしょう。僕の取材体験を重ねあわせれば、2002年に史上初めて行われた日朝首脳会談は、政治家としての彼と戦後日本の大きな転機になりました。故金正日(キムジョンイル)総書記が日本人拉致の事実を認め、謝罪した。このときソウルで取材していた私に先輩記者が漏らした台詞(せりふ)は印象的でした。「中国や朝鮮半島との関係の中で、日本が戦後初めて“被害者”になったな」と。つまり、戦後一貫して加害者として謝罪や反省を求められた日本の立ち位置が変わった。もちろん拉致は断じて許されざる国家犯罪とはいえ、それに手を染めた北朝鮮はいくら罵(ののし)っても構わない対象となり、同時に戦後も一貫して燻(くすぶ)っていた朝鮮半島への差別心なども噴き出した。「いつまで謝罪を求められるんだ」という鬱屈(うっくつ)に歴史修正主義的な風潮までが一挙に噴出するバックラッシュ現象が起きたのです。
その対象は直ちに韓国や在日コリアンにも広がり、マンガ『嫌韓流』の発刊が05年、在特会(在日特権を許さない市民の会)の出現が06年。その契機になった会談と以後のムードに乗って晋三氏が政界の階段を一気に駆け上ったのは象徴的でした。彼が右傾化をあおった面は間違いなくあるけれど、彼自身が時代の風を捉え、それに巧みに乗ったともいえるというゆえんです。
■戦後の歴代内閣の約束事、片っ端から破壊した
──『安倍三代』を取材、執筆されたのは安保法制の議論がピークのときでしたが、その後、晋三氏に対する評価で変わった部分はありますか。
変わりません。今回のような形で亡くなったのは痛ましくても、それと政治家としての評価は別です。特に僕が問題視しているのは、戦後の歴代政権がかろうじて堅持してきた大切な約束事を片っ端から破壊した点です。
いわゆる安保法制でいえば、公権力の行使者を縛る憲法の解釈を一内閣の閣議決定でひっくり返した。その過程では、内閣法制局長官を自らに都合のいい人物にすげ替えた。政府からの独立性が求められる日銀総裁やNHK会長などもそう。そして国権の最高機関たる国会では百何十回も嘘(うそ)をつき、少数派でも一定の有権者の支持を得て議席を占める野党を「悪夢」などと罵り、権力監視が役割のメディアを露骨に選別し、敵とみなしたメディアには陰に陽に圧力をかける。挙げればキリはありませんが、歴代の政権がかろうじて堅持してきた民主主義の矜持(きょうじ)を次々なぎ倒して平然としていた。その罪はあまりに重い。