徳川方の狙い通り、真田勢200が城から出撃し、徳川方の動きを阻止しようとした。これをうけ徳川勢の一隊が真田勢を襲撃して城壁まで追い詰める。しかし、これは昌幸の計略だったらしい。真田勢は、徳川勢が城壁に近づくと弓矢や鉄砲で一斉射撃するなどして、寄せ付けない。そのような状況で、昌幸が城門をあけさせると幸村の一隊が、秀忠の陣に迫ったのである。このとき、秀忠の旗本七騎が真田勢を防ぎ、「上田の七本鑓」と称賛されたという。
当初、家康は秀忠に対し、信濃の平定を命じていた。そのため、信濃における西軍の拠点である上田城の攻略を図ろうとしていたわけである。ところが八月二十三日に岐阜城が落城したことにより、状況が変わってしまった。家康自身も江戸城を出陣し、上方に向かうことになったためである。八月二十九日、家康は大久保忠益を使者として秀忠のもとに遣わし、九月九日には美濃に着陣するようにと伝えようとしていた。ところが、利根川の増水のため、忠益が小諸の秀忠本陣に着いたのは、9日後の九月八日のことだったのである。
秀忠は九日、全軍をひとまず小諸へと撤収すると、翌日十日、主力を率いて美濃に向かったが、大雨のために道はぬかるみ、行軍に時間がかかってしまう。関ヶ原に着いた時には、戦いは終わっており、秀忠は家康の逆鱗にふれたと伝わる。
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