しかも、幸村の正室は、三成の盟友・大谷吉継の娘であった。真田家では、この小山に参陣する直前、下野の犬伏において、どちらにつくか密談をした結果、親子・兄弟で袂を分かつことにしたという。世に有名な「犬伏の別れ」であるが、真田家をとりまく姻戚関係を考えれば、昌幸と幸村が西軍に、信幸が東軍につくのは既定路線であったに違いない。
真田勢はわずか2500余
野戦では勝ち目はなかった
九月二日、秀忠は小諸城に入ると、上田城を攻撃する態勢を整えた。上田城は、会津と上方との中間地点に位置している。上田城が西軍についている限り、会津と上方が容易に結びつきかねなかった。徳川勢としては、なんとしても抑えておきたい要衝だったのである。
これに対して昌幸は、上田城での籠城を選ぶ。昌幸が動員できた軍勢は、2500余しかなかったといい、徳川勢と野戦で戦っても、勝ち目はなかったからである。
籠城を決めた昌幸は九月三日、徳川方として従軍していた子の信幸に対し、降伏する意を伝えた。しかし四日、期日になっても、昌幸は開城しなかった。昌幸には、最初から降伏する意志などなく、時間稼ぎのために偽りの降伏を願い出ていたのである。
これにより、秀忠は全軍に上田城の攻略を命じた。翌五日、小諸城を出立した秀忠は、信幸を先鋒として戸石城を攻撃させた。この戸石城を任されていたのが真田幸村だったが、幸村は兄と戦うのを避け、戦う前に城を放棄すると、上田城に撤収する。兄の信幸に手柄を立てさせたともいわれるが、兵力の分散を避けるために放棄した可能性が高い。
戸石城を攻略した徳川方は、上田城の東方2キロメートルに位置する染屋台に本陣をおく。こうして徳川勢は上田城に接近すると九月六日、総攻撃を命じたのである。大軍を投じて上田城の総攻撃に乗り出した徳川勢であったが、堅城として知られる上田城を武力にものをいわせて攻めても、犠牲は増えてしまう。そこで徳川勢は、上田城下で稲刈りを命じた。これを阻止するために城から打って出た真田勢を討つ作戦をとったのである。