下重暁子・作家
下重暁子・作家
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、ウクライナ侵攻について。

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 ウクライナから国境に向かう長い人の列! 幼い子を抱き、重い荷物を引いて……。その顔は疲れ切っている。戦闘から避難する人の数は一五〇万とも二〇〇万とも。とりあえず命を守るため、最小限の物だけを持って。

 この先、国境を越えて行く先はあるのか。受け入れ側のポーランドなどでは設備を整えているが、戦乱が長引いた場合どうなるのか。そして、停戦になった場合にはいつ元にもどれるのか。一度戦乱が起きると、どのくらいの月日と物資が必要になるか、はかり知れない。

 第二次大戦後の日本もそうだった。戦時中は命を守ることに精一杯だったが、更にたいへんだったのは戦後であった。食べ物もなく、箪笥の中の母の着物は、農家との物々交換でお米や芋に姿をかえ、私のお雛様も売られていった。

 父だけを残して、母の故郷である新潟県の上越へ、母と兄と私が移動することになるが、その途中の筆舌につくしがたい苦しみ。列車の椅子の間や通路にも人がぎっしり。幼い子は網棚の上。乗降は入口まで辿り着けず、窓から出入りする。トイレにも行けず、もう記憶から消している。

 当時住んでいた大阪から北陸線で日本海沿いに進む途中、富山湾付近だったか、はるか海上が真紅に燃えていた。一瞬人々は凍りつき、誰しも空襲に思いを馳せた。実は船火事だったのだが、ついこの間まで続いた地獄絵を連想したのだ。

 長野で乗り換えるとき、案の定、私たち三人は窓から降ろされ、虎の子のトランクだけ降ろせなかった。駅前の旅館は、顔色の悪い中年の女性と相部屋で、その女性が、私に青りんごの皮を剥いてくれた。

 次の日、やっと母の故郷に到達したら、そこは天国だった。白米に魚、豊富な野菜、清水で水瓜も冷えていた。その夏のことは決して忘れない。

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