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 人生の終わりにどんな本を読むか――。在英漫画家の轡田千重さんは、「最後の読書」に『不思議の国のアリス』を選ぶという。

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 おもちゃの代わりに本を与えられて育った私は、父の好みの英国児童文学に没頭する幼少期を過ごした。ドリトル先生やナルニア国シリーズ、どれも大好きで何度も読んだものだが、中でもお気に入りは「不思議の国のアリス」であった。ただ可愛いだけでなく摩訶不思議な、時に薄気味悪くもあるそのお話は、テニエルの洗練された挿絵と相まって、変に老成していた当時の私の胸のド真ん中に突き刺さり、そのまま今に至っている。

 十代になったある日、祖父の代から集められた本で溢れほとんど書斎と化した応接間を探索していた私は、そこで場違いなまでに洒落た画集を発見する。金子國義の「アリスの画廊」であった。金子氏の描くアリスの危うさと強さと背徳感は、私の知らないアリスであり、「こんなに大人っぽい解釈があるのか…!」と、新たな扉を開けてくれた。

 その後私は英国に留学し、アリスとルイス・キャロルにまつわる聖地巡礼も無事済ませ、紆余曲折の果て、この地で漫画を描いたり教えたりするようになるのである。

 プロとして絵を描くようになってからは、いつか自分の解釈で「不思議の国のアリス」を描きたいと思い続け、今も英国で漫画を教える際に、アリスからの抜粋を使って子供達にコマ割りやページ割りの練習をさせている。さすがの知名度なので、授業もすんなりと進む。自由に解釈してよし、と言うと、高確率で血塗れの「殺し屋アリス」が登場するのが、昨今の英国の漫画好きっ子である。

 さて、私版のアリスはどうなるのだろう。憧れが強すぎて手がつけられないのに妄想ばかりが膨らんで、はたして自分が死ぬまでに形にできるのであろうか? 今際の際までアリスを紐解き、ああだこうだと思い悩んでいるんじゃなかろうか。いや死ぬまでには描けよ!と突っ込みたい気持ちだが、私版が実現していようといまいと、濃いアッサムミルクティーなぞをお供にアリスのページを繰り、美しくおかしな世界に迷い込むかの様にこの世から去るのが、私にとっての最高の幕引きかもしれない。

週刊朝日  2022年4月15日号