横浜市鶴見区など各地にある「沖縄タウン」。沖縄から働き口を求めて移り住んだ人たちが差別に耐えながら身を寄せ合うようにコミュニティーができた(撮影/写真映像部・東川哲也)
横浜市鶴見区など各地にある「沖縄タウン」。沖縄から働き口を求めて移り住んだ人たちが差別に耐えながら身を寄せ合うようにコミュニティーができた(撮影/写真映像部・東川哲也)
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 全国各地にある沖縄タウン。働き口を求めて移住した沖縄出身者が助け合って生きてきた。街を歩くと、沖縄の差別の歴史や経済事情も見えてくる。AERA 2022年5月16日号の記事を紹介する。

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 バスを降りた瞬間、潮の匂いがした。水平にのびる舗装道路の向こうに、巨大なガントリークレーンが陽炎のように並び立つ。高度経済成長を支えた京浜工業地帯のど真ん中、横浜市鶴見区の一角にある「沖縄タウン」。ここは4月に始まったNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」の舞台の一つでもある。

 メインストリートの仲通商店街を歩くと、軽やかな三線の音が耳に飛び込んできた。沖縄民謡が流れる「おきなわ物産センター」の店内は沖縄一色。泡盛、島らっきょう、ゴーヤー……。約千点の商品のほとんどを沖縄から仕入れている。高校卒業まで那覇市で過ごした下里優太社長(41)はこう振り返った。

「子どもの頃は、沖縄は日本の枠の外みたいなイメージがあったので、早く沖縄を出たい、と思っていました。でも、私が内地に来た2000年頃は安室奈美恵さんらが活躍していて、沖縄出身でよかったと思えるようになりました」

 鶴見区には大正前期から昭和初期にかけて、多くの沖縄出身者が仕事を求めて集まり、戦後間もなく「横浜・鶴見沖縄県人会」が発足した。3階建ての県人会館の1階テナントに入居する同店は1986年、沖縄でスーパーを経営していた下里さんの父が鶴見に移住して創業。2016年に経営を継いだ下里さんは鶴見の魅力をこう語る。

「私たちのように沖縄から来たよそ者や、南米出身の人たちも受け入れてくれる度量と人情味のある街です」

■支え合って生きてきた

 このエリアは90年代以降、「南米沖縄タウン」と呼ばれるほど、多くの南米出身者が暮らしている。下里さんが事務局長を務める県人会青年部も約60人のメンバーの8割が南米系。ほとんどが戦前に沖縄から南米に移住した祖先を持つウチナーンチュだ。

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