沖縄では今も県外に出て短期の仕事を請け負う「キセツ」という働き方がある。沖縄の不安定な雇用や給与水準の低さも背景にはあるが、下里さんは「キセツ」で働く今の若者たちと、鶴見に根を下ろしたかつての沖縄出身者の違いをこう指摘する。
「かつては二度と戻れない覚悟で沖縄を離れ、みんなで支え合って生きてきた、と聞いています。すぐに沖縄に戻るのが前提の現在の『キセツ』とは別次元のように感じます」
先人たちの苦労の結晶が県人会館だ。戦後の混乱期に取得した土地の権利や会館建設をめぐって、多くの沖縄出身者が協力を惜しまなかった。県人会館を運営する一般財団法人の理事長で、県人会長も兼務する金城京一さん(73)は沖縄本島北部の今帰仁村の古宇利島出身だ。
「島で食べるのはイモばかり。幼少時代は腹をすかしていた思い出しかありません」
金城さんは大学進学を志し、20歳で米軍統治下の沖縄を離れた。いとこが経営する神奈川県川崎市内の会社で仕事に追われ、結局進学を断念。沖縄が日本に復帰したときの記憶もほとんどない。
「無一文で出てきて、生活するのは大変でした。こっちでおいしいものを食べると、両親やきょうだいはどんな食事をしているだろうか、といつも頭をよぎっていました」(金城さん)
復帰前後の頃はアパートを借りる際、「沖縄の人には貸したくない」と言われたことも。当時は生活困窮や習慣の違いから生じるストレスもあり、沖縄出身者が集まって深夜まで騒ぐことも多かった。だから、貸主の反応も仕方がないと思った、と金城さんは言う。
■客のほぼ全員沖縄出身
30代半ばで独立。鶴見区内で配管設備会社を約40年間経営し、昨年廃業した。沖縄の日本復帰からの歳月は、がむしゃらに働いてきた金城さんの本土での暮らしの50年と重なる。
「復帰前の米軍統治下に比べると沖縄は経済的によくなりましたが、基地の弊害はまだまだ残っています。沖縄の人たちが声を上げても国と国との話だから、と聞き入れてもらえない。でも、宙(ちゅう)ぶらりんでいるよりは復帰してよかったと思っています」