與那覇潤(よなは・じゅん)/評論家、元歴史学者(日本近代史)。1979年神奈川県生まれ。著書に『平成史』(文藝春秋)、『歴史なき時代に』(朝日新書)など
與那覇潤(よなは・じゅん)/評論家、元歴史学者(日本近代史)。1979年神奈川県生まれ。著書に『平成史』(文藝春秋)、『歴史なき時代に』(朝日新書)など

■京アニ事件との共通項

 むしろ性格的に近いのは、2019年の京都アニメーション放火殺人事件です。あの事件の被告も、本人の主観としては「京アニに裏切られて、俺の人生から最後の救いが消えた」、だから復讐(ふくしゅう)だと主張したわけですが、他の人にはなぜ京アニの作品が「被告を苦しめてきたこの社会」の象徴になり得るのか、思考の過程を全く理解できませんでした。つまり、「右翼の人なら、確かにあの発言は左翼的に映っただろうね」といった共通の前提が、存在していない。

 言い換えると、往年の政治的なテロルは「この俺の拠(よ)って立つ物語(価値観)は、当然国民全員に共有されるものだから、邪魔になる政治家は殺す」という形で起きていました。いわば「物語の過剰」が暴力を生んだのですが、京アニ事件や安倍元首相射殺事件の容疑者は正反対に、むしろ物語の過少、「人と共有できる物語なんて、どうせ自分にはない」という絶望を対象にぶつけたように見えます。今回の容疑者でいえば、同情や共感を得るのが目的なら、うそでも「アベ政治を許せなくてやった」のように供述するはずでしょう。それをせずに20年近く前の家庭崩壊のみを動機として述べるのは、どうせ自分の悲劇を他人は理解してくれないんだと、そこまで諦めているように感じます。

 旧統一教会の問題点の追及や、儀礼的であれ安易に親交を持ってきた政界のあり方の見直しは、大いにやればよいでしょう。しかしこうした社会に広がる孤独を癒やし、かつどれだけ相手が憎いものの象徴に見えても「抹殺することだけは絶対だめだ」という規範を作っていかないなら、対象を変えて類似の事件は繰り返されると懸念しています。

 2カ月前に出した『過剰可視化社会』でも論じましたが、今の日本はSNSを典型として、キラキラしたポジティブなイメージだけを経由して人とつながる傾向が強すぎる。「たとえ自分がネガティブな存在だったとしても、この社会に居ていいんだよ。そのかわり自分には愉快でない相手とも、一緒にやっていこう」。そうした共通感覚を育む契機になり得るのかどうかで、安倍さんの国葬の当否も、定まっていくのではと思っています。

(構成/編集部・高橋有紀)

AERA 2022年8月1日号

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