放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、夢の種を蒔いてくれた、ただ一人の師匠の話。
* * *
私、放送作家・鈴木おさむは今年で放送作家になって30年です。放送作家を本格的に目指したのは1991年の今頃でした。どうやって放送作家になっていいかわからない僕がテレビを付けた時に、太田プロダクションのお笑いライブのドキュメンタリーが放送されていました。ダチョウ倶楽部さん、劇団ひとり、Uターンの土田君、有吉弘行さん、などなど沢山のおもしろい芸人さんがいる事務所。
番組ではお笑いライブをどうやって作るかを見せていました。そこで、若手のお笑い芸人さんのネタを見てアドバイスをする放送作家さんが映っていました。そこで僕は思うわけです「ここに行けば、放送作家さんに会える」と。
僕は若手芸人としてネタ見せに行くフリをして、放送作家さんに会いに行くことにしました。太田プロに電話して、次のネタ見せの日を聞き。
四谷にあった太田プロの稽古場。行くと、若手芸人さんが長蛇の列。僕もそこに並ぶ。2時間近く待って自分の番になる。目の前に放送作家さんが二人いました。そのうちの一人が前田昌平さんという方でした。銀縁の格好いい眼鏡をかけて、ダンディーな雰囲気を醸し出す作家さんでした。
僕がいきなり「実は僕は放送作家になりたいんです」と言いました。普通ならそこで「帰れ」と言われてもおかしくない。すると初めて会った19歳の小僧の目を見て「最近の放送作家はな、出演者の気持ちが分からないやつが多い。だから、君が来月から自分でネタを作ってライブに出て、半年間続けたら、そこで考えてあげる」と言ったのです。
それを言われて、やるしかないです。放送作家目指して、自分でネタを作って翌月からネタ見せに行きました。
すると、その月に新人芸人さんが挑戦するコーナーに出ることが出来たんです。ピンです。いきなり200人ほどのお客さんがいるところに出ていきネタをしました。当時、ウッチャンナンチャンさんのネタに刺激を受けまくっていた僕は、擬人化のネタ。物産展に出品されているメロンの気持ちになって呟くというネタをしました。舞台に立った時、200人の目、400個が自分を刺しました。今でも思い出します。ほんのちょっとですがウケました。