『喜怒哀楽のお経を読む』
朝日選書より発売中
ある時、「“喜怒哀楽”という視点からお経を読んだら面白いのではないか」と思いついた。
お経は人類の知恵の結晶でもあるので、そこから苦悩への対処法や人生を生き抜く手順を抽出することが可能である。実際、その文脈でお経を読んだ書籍は、少なくない。しかし、仏教経典に“喜怒哀楽”からアプローチをする人は、おそらく他にいないのではないか(いたら、ごめん)。
そもそも仏教は、「快にも不快にも支配されない境地」を目指す道なのである。“喜怒哀楽”から離れる方向を指し示しているのが仏教経典(お経)だ。ところが、お経には随所に人間の怒り・喜び・悲しみが描かれている。笑いを活用したお経もあれば、深い悲しみに満ちたお経だってあるのだ。そこに注目しようというわけだ。うまくいけば、意外なお経の魅力が引き出せるかもしれない。そんな思いで書き下ろしたのが本書である。
ただ、取り組み始めてみると、どうしても“喜怒哀楽”ではうまく話が運ばない。“喜怒哀楽”という枠組みにぴったりこないのである。そこで、当初の予定を変更して、「恐れ」「怒り」「笑い」「悲哀」といった章立てになった。最後に「死」という章を加えて、“恐怒笑悲死”にした(もちろんそんな熟語はない)。この五項目を軸として、「ひとりのフリーライターが、異なる専門分野の人を訪ねて、お経に書かれている“恐怒笑悲死”について取材する」といった流れで話が進んでいく。このようなフィクション・スタイルで本を書いたのは初めてだったので、実に楽しかった。対話形式で文章を書くことの面白さには独特のものがあると感じた。実はこれ、十八世紀の町人学者・富永仲基の『翁の文』をマネしたのである。モノローグ(一人語り)でもなく、ダイアローグ
(対話)でもなく、架空の対話相手を設定することで、自分自身の意見に反論したり、まぜっかえしたりできるので、時には予想していなかった方向へと話が進む。また、対話の文体で書くと、パラグラフをつないでいくのもよりなめらかになるようだ。フィクションを書き慣れている人にとっては自明のことかもしれないが、私にとってはちょっとした発見気分であった。
さて、いくつかの章をご紹介させていただこう。まず、第一章のテーマは「恐れ」である。仏教は人間の認識や感情などを細かに分類することで、苦しみや喜びの発生メカニズムを解明しようと努めてきた。しかし、意外と「恐怖」に関する考察は多くない。仏教にとって「恐れ」は、「怒り」や「慢心」などに比べて、それほど大きな問題だと捉えられて来なかったのであろう。しかし、人間にとって「恐れ」は、不安や苦悩の元でもある。また、「恐れ」は人類が進化していくために必要な反応でもある。仏典では「恐れ」をどのように取り扱っているのだろうか。
第三章では、「笑い」を取り上げている。この章はかなり力が入っており、他の章より分量も多い。ここではまず、「宗教と笑い」という問題に取り組んでいる。考察のポイントは“もの語り”だ。我々の人生も、この世界も、社会も、善も悪も、“もの語り”であり、我々はある程度それに沿って生きている。宗教も“意味の体系”であるから、ひとつの“もの語り”だと言える。そこに自己投棄していく、あるいは被投されるのが信仰なのである。
ただ、宗教は非日常や来世や超越など特有の領域をもつので、“もの語り”がすごく強い。その“もの語り”をさらに別フェーズへともっていくのが「笑い」である。いわば、「笑い」は“もの語り”を脱臼させる能力をもっているのである。成熟した宗教性と高度な文化がなければ宗教を笑うことはできない。
「宗教」と「笑い」の関係は、よく考えねばならない案件なのである。
そして、第五章に「死」を取り上げた。第一章から第四章までとは異なる流れになっている。第五章をつけ加えたのは、『大般涅槃経』に描かれている釈尊のリアルな老病死を味わいたかったからと、仏教経典に出てくる死にまつわる話(安楽死や自死や葬儀など)を現代社会に引き寄せたかったからである。私は、どうも死の問題がすべて「自己決定」と呼称される原則に収斂してしまうことに違和感がある。「自己決定とか言うけど、その“自己”って虚構じゃないの? そんなものを拠りどころにしていいの?」という思いがぬぐえないのである。それは仏教の教えから身についた直観でもある。
第二章の「怒り」も、第四章の「悲哀」も、個性的な仏典を取り上げている。本書を読み進めていくうちに、仏教経典に関心が芽生えたり、人間学的知見が鍛錬されたりすることへつながるような本になっているのではないか(なっていてほしい)。