日清日露の戦役を乗り切り1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任する。そして運命の明治42年(1909)10月26日、伊藤は満州・朝鮮問題について、ロシア蔵相ウラジミール・ココツェフと非公式会談に臨むため、ハルビン駅に到着した。

 日本側の列車を訪れたココツェフと歓談、宴席が用意されたロシア側列車に移動しようとしたとき、3発の銃弾が伊藤の胸腹部を貫いた。直ちに駅舎に運び込まれ、医師が応急手当てを行ったが、30分後に逝去した。享年68。狙撃犯は韓国の独立運動家、安重根だった。

 彼は今回の安倍元首相暗殺犯と同じように群衆に紛れて接近し、至近距離から発砲した後に逃走も抵抗もせず逮捕された。当時、韓国は日本の保護国となっており、これを統治する韓国統監が伊藤だったため、独立運動家は伊藤を目の敵にしていたのだった。

 しかし、皮肉なことに伊藤自身は日韓の併合には消極的であり、彼の死後に後を継いだ寺内正毅統監と李完用首相によって「韓国併合ニ関スル条約」が締結されたのだった。韓国独立を願った暗殺が、逆に日韓併合を進めたことになる。ただ、当時の大日本帝国政府は韓国の李王家を日本の皇族に準ずる扱いとし、大規模な経済支援とインフラの整備、京城帝国大学を筆頭とする教育の充実を図り、李朝300年の停滞が一挙に近代化したことは否めない。

 一方では、古くからの独立国としてのプライド高い朝鮮半島の人々を政治的文化的に併合したことで今に残る反感をかっている。苦労人の伊藤にはそういった機微がわかっていて、あえて保護国以上の関係は望まなかったのだろう。

 安重根によるブローニング拳銃の弾丸は小口径であり、心臓や脳などの急所は外れていたために伊藤が亡くなるまでに、少し時間があった。伊藤は犯人が独立運動家と聞いて「なんと馬鹿な奴だ」と言ったという。

 現代であれば、すぐに救命救急センターに搬送して手術ができたであろうから残念でならない。安重根の思い込みがなく、仮に銃撃を受けても伊藤の生命が助かっていれば現代にいたる日韓日朝関係も違ったものになっていたかもしれない。

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