安倍晋三元首相の遺影に手を合わせる人たち/自民党本部
安倍晋三元首相の遺影に手を合わせる人たち/自民党本部
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『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師が、歴史上の偉人や出来事を独自の視点で分析。今回は、伊藤博文を「診断」する。

【写真】安倍元首相の後ろで演説を聞いていた山上容疑者

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 先週、久しぶりのリアル学会の昼休みに、安倍晋三元首相の遭難を聞いた。学術集会長以下、医者の集まりなので状況が厳しいことは皆理解していたが、救命救急では日本でも最高の診療技術を有する奈良県立医大の先生方に一縷の望みを託していた。しかし、シンポジウムが終わり、帰りの新幹線の中でご逝去のニュースが流れた。痛恨の極みである。

 政治的な考え方の違いはあっても、安倍元首相が平成の日本を代表する大政治家であり、欧米のみならず必ずしも友好的でない国々からも高い評価を受けていたことは、誰もが認めるであろう。その新幹線の中で思ったのは、首相を務めた山口県出身の大政治家で、凶弾に倒れた伊藤博文のことだ。

明治の大政治家

 伊藤博文は1841年(天保12)9月2日、周防国毛郡の農家に生まれた。幼名は利助、のち俊輔。父十蔵が足軽の伊藤家を継いだため、士分となり、吉田松陰の松下村塾に学び、兄貴分の高杉晋作とともに尊王攘夷運動を行うも、藩命によってイギリスに留学。ロンドンで米英仏蘭四国連合艦隊の長州藩攻撃を知って帰国、藩主らに開国への転換を説いた。高杉の挙兵に加わって藩内の勢力争いに勝ち抜き明治維新を迎える。

 明治政府の外国事務掛、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事から大蔵少輔兼民部少輔となり貨幣制度の改革を行った。征韓論争では大久保利通、木戸孝允を支持し、士族反乱や西南戦争後、大久保の後を受けて内務卿、1885年には太政官にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。その後4回首相に就任し、退任後も元老として明治国家の建設を主導、政党政治を構想して1900年(明治33)には立憲政友会を結成し、その総裁となるとともに華族としては最高位の公爵に任じられた。

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