■往時は映像文化の発信地
写真は築地方から撮影した築地川を渡る36系統築地行きの都電。背景は新富町三丁目(現・新富二丁目)の街並みで、築地川は1965年に埋め立てられるまで、水をたたえていた。前述の「橋づくし」では築地川畔の網船屋も描写されており、築地側には上総屋が盛業していた。新富町側にも網船屋があり、京橋小学校で同級だった榎本君の生家で、屋号は中村屋だった。1960年代に入ると築地川の汚染が深刻となり、夏季になると汚臭が鼻についたことを思い出した。
「橋づくし」の文中に「S興行の古い黄いろのビル」と記述されているのが、都電の背後に写る「築地菊栄ビル」で、菊正宗酒造の東京支社として使われていた。その前身は「松竹キネマ本社ビル」で、大林組により1927年に竣工した一階がスキラッチスタイルのモダン建築だ。
松竹キネマ本社ビルが建てられた時代は、映画が大衆娯楽として発展期に向かう時代だった。このビルが映像文化の発信地として繁栄していた時代が偲ばれるが、惜しくも2014年に解体され、跡地には13階建てのマンション、ザ・パークハウス東銀座が建てられた。
■岡本綺堂が描く明治の新富町
築地菊栄ビルの左隣が京橋税務署の庁舎で、明治初期に隆盛した「新富座」の跡地として知られている。「半七捕物帖」で著名な小説家・岡本綺堂は1923年の随筆「島原の夢」で、少年時代の見果てぬ夢として、明治中期の「新富座」の歌舞伎文化と、芝居茶屋が林立する新富町の風情を回顧している。
その一節に「築地の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺碧の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。」とあり、往時の築地川の様子をしたためている。
次のカットが築地菊栄ビルの前から築地川を写した一コマだ。残暑の風になびく川岸の柳並木が、綺堂が回顧した憧憬を彷彿とさせてくれた。対岸には戦災を免れた六方館や和可松といった老舗旅館が軒を連ね、聖路加国際病院のシンボルである教会の尖塔もここから遠望できた。
築地橋から都電の姿が消えたのは1971年3月17日だった。筆者は36系統錦糸町駅前行き最終装飾電車を新富町停留所で見送っている。周囲には人の姿もなく、春の夜の寂しい送別だった。
■撮影:1967年2月11日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの軽便鉄道」(イカロス出版)など。2021年1月に「185系特急電車の記録」をフォト・パブリッシングから上梓した。