ところが、慶喜自身は開国論者であった。一橋徳川家当主時代から慶喜に仕えた栄一はそのことに不満であったが、その命によりパリに向かった頃には攘夷論を捨てていた。そして、一年余りにわたるヨーロッパの日々は栄一を尊王攘夷の志士から完全に脱皮させ、明治の経済人として名を残す基盤を培う日々となる。
栄一はかけがえのない機会を与えてくれた慶喜に強い感謝の念を抱く。生涯を貫く忠誠心の原点となった。その恩義に報いるため、維新後は静岡で自主的に謹慎生活を送っていた慶喜のもとに足繁く通い、心を慰めることに努めた。慶喜も栄一の好意を喜び、二人の信頼関係が醸成されていくのである。
明治維新を境に、慶喜は日陰の身となった。その姿を見続けた栄一は、もう一度陽のあたる場所へ出てもらいたいと思わずにはいられなかった。
こうして、一時は朝敵とされた慶喜の名誉回復を目指すようになる。既に財界の大物となっていた栄一は恩義に報いようと奔走するが、その切なる思いの前に立ちふさがっていたのが海舟であった。
栄一と海舟では慶喜に対するスタンスが正反対だった。維新後、海舟は戊辰戦争の際に朝敵に転落した慶喜に反省と自重を求め続ける。海舟と慶喜の関係が幕末以来良くなかったことも背景にあったが、慶喜に同情的な栄一はそんな海舟の対応に強い不満の念を抱く。維新後、慶喜は静岡に約三十年とどまるが、これを海舟の差し金とみたほどだ。
慶喜の処遇をめぐり、栄一と海舟は水面下で暗闘を繰り広げた。それほど二人の人間関係も複雑だった。海舟は栄一よりも二十近く年上だが、互いに自信家で剛毅な性格であったことがその主たる理由である。
維新の動乱を最前線で乗り切り徳川家の存続に成功した海舟の功績を高く評価した栄一であったが、実際会ってみると「小僧扱い」されてしまう。そのプライドは大いに傷付けられた。そのことをわざわざ語っているぐらいであるから、よほど腹に据えかねたのだろう。
維新後、名声が高まる海舟は、栄一について何も語っていない。だが栄一はそうではない。徳川家を救った功績は認めるものの、維新の三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)に比べてリーダーとしての素質を備えていないとまで語り残している。辛(から)い評価の背景には、小僧扱いされたことや慶喜に対する海舟の姿勢が影を落としていた。
そんな栄一と海舟と慶喜の「三角関係」はどんな結末を迎えたのか。本書では、維新の勝者たる薩摩・長州藩を主役とする歴史からは見えない、知られざる明治維新史を明らかにしている。