18・41系統が走る板橋線と交差する乙2。乙1型が営業線を走った最後の日となった。 新庚申塚~庚申塚(撮影/諸河久:1966年5月28日)
18・41系統が走る板橋線と交差する乙2。乙1型が営業線を走った最後の日となった。 新庚申塚~庚申塚(撮影/諸河久:1966年5月28日)

 この乙1002は大久保車庫の配置で、その行き先は芝浦工場と推察された。出合った京橋から東京港口までは本通線と金杉線を走り、東京港口から芝浦線と呼ばれる芝浦工場への引込線を走る筈だ。今なら即座にタクシーに飛び乗り、芝浦工場までの一部始終を撮影するのだか、15歳の筆者にはそのアイディアも財力もなかった。

 ちなみに、芝浦工場の引込線である芝浦線は、東京港口~芝浦工場(約1000m)を結んで1920年に敷設された。当初は非営業だったが、1926年から南浜町(後年芝浦一丁目に改称)~芝浦町二丁目(約800m)で営業を開始した。当初は4系統、後年特1系統として運転されたが、戦時中の1944年5月に営業廃止。引込線自体の廃止は、芝浦工場が電車の修繕を終了した1969年だった。

■珍しい木造車体が魅力

 乙1000型は乙1001が三田車庫、乙1002が大久保車庫、乙1003が三ノ輪車庫に配置されていた。いっぽう、乙1型は乙1が三田車庫、乙2が荒川車庫の配置だった。これらの乙型はお客を乗せるわけではないので、装飾を一切排除した実用的な形態をしており、塗色はダークグリーン一色。都電の中では珍しい木造車体だった。

 乙1000型は時折芝浦工場~車庫の資材運搬に使われたが、乙1型はほとんど稼働しなかった。三田車庫から荒川車庫に転属した乙2は、受け持ち路線に専用軌道区間が多かったため、トラックが入りにくい区間の砂利散布輸送に使われていたようだ。

 別カットは滝野川線(現荒川線)時代の新庚申塚交差点を走る乙2の一コマ。この1966年5月28日が「乙1型の走った最後の日」とされており、筆者もこの乙2走行撮影は空前絶後のことだった。乙1型にはエアーブレーキ装置が無く、手用ブレーキのみの装備だったから、配置先の荒川車庫には手用ブレーキを扱えるベテラン運転手が在籍していたことに感心した記憶が残っている。

 乙1型は資材運搬車として1941年に電気局工場で2両が製造された。当初はジョンバット台車を装備したが、後年ブリル21E台車に換装された。前出の乙2は1971年に廃車後、不忍通りにある文京区勤労福祉会館裏の「神明町都電車庫跡公園」で静態保存されている。

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