当時の米国でソニーは、テレビ、デジタルカメラ、オーディオメーカーとしてのブランド力は抜群だった。だが、ソニーのイメージセンサーはまったく知られていなかった。
柳沢は、一から営業を開始する。大手メーカーに売り込みをかけた。猛烈に働く日々が始まった。昔流の“ドブ板”営業、彼の言葉によると、“土下座”営業である。
商談には、技術者が同行した。製販技一体の営業だ。誇り高い技術者にしてみれば、国内のデジカメ市場で絶好調のイメージセンサーをなぜ、頭を下げて売り込まなければいけないのかとなる。だが、柳沢にしてみれば、“土下座”をしてでも買ってほしい。
武器は、技術力である。
「イメージセンサー技術は、今も昔もナンバーワン。この点は、売りやすかった」
と、柳沢はいう。実際、出荷後の市場不良はゼロ。大きなセールスポイントだった。
■眠る時間なかった
日米では、営業スタイルが異なる。「ベタな営業ではダメ」と柳沢はいうが、当然、日本流の接待は通用しない。求められるのは、顧客の課題解決だ。つまり、提案型の営業である。
契約書のつくり方も違った。米国の取引先との契約書をソニー本社に回すと、「こんな条件では契約できない」と、大量の修正が書き込まれ、真っ赤になって戻ってきた。それをそのまま取引先に渡しても、「それはのめない」と突き返されるのが落ちだ。一つひとつ確認しながら、本社に説明し、取引先を説得しながら、すり合わせていった。根気のいる仕事だった。
「昼はアメリカで顧客とすり合わせ。夜は日本を説き伏せる。文字通り、眠る時間がなかった」
家には、ほとんど帰らなかった。いや、帰れなかった。中学から大学、大学院とバスケットボール部に所属した彼は、体力には自信があった。
イメージセンサーの採用企業が見つかった後も、眠らぬ奮闘は続いた。連日、飛行機に乗って、全米に散らばる顧客の“御用聞き”に歩いた。睡眠は機中でとった。