2015年夏、すし詰めのゴムボートで、命懸けで地中海を渡る難民たちの姿が連日、大きく報道された。大陸の端に辿り着いた彼らが目指したのはドイツだった。この年、ドイツには100万を超える難民がやって来た。四割がシリア難民だ。本書の著者、ユスラ・マルディニもあの夏、ドイツを目指した何十万というシリア難民の一人だった。
学生時代、シリアを旅したことがある。ウマイヤ朝の帝都だったダマスカス、湧き水の迸るグータの森、砂漠に佇むローマ時代のパルミラ遺跡……。夕暮れのパルミラは白亜の列柱が夕陽で薔薇色に染め上げられ、それは美しかった。シリアは本当に美しい国だった。だが、シリアには、束の間の旅人が知りえない別の顔がある。1971年、ドイツに亡命し、のちに独語作家となったラフィク・シャミは祖国についてこう記す。
「あの瞬間に俺は気づいた。シリアには二つのレベルが存在するのだと。上のレベルは平和で、この国が楽園だと思うのは旅行者だけではなく、第二のレベルを知ることがない限り、シリアの国民もそう思っている。しかしダマスカスの下には地下七階のみごとな地獄の都市があり、広がっている……数百キロにもその都市は広がりを持ち、キノコのようにアドラやサイドナーヤやパルミラで大地から地上に出る。そこには数十万もの無辜の者の牢獄や収容所がある。この地獄は厳しく運営されていて、この都市の上に住む者はこれについて聞いたり感じたりすることはない。」(『ゾフィア すべての出来事のはじまり』より。鈴木克己訳)
地獄の地下都市とは、体制に異を唱える者を拉致し投獄し、拷問する刑務所のことだ。パルミラには悪名高い収容所がある。政治的自由を欲するシリア人にとって「パルミラ」とは地獄の地下都市の代名詞だ。この地下都市はシリアだけでなく、中東全域に根を張る。共和制、王制など体制の違いを問わず、中東諸国の殆どが独裁国家だ。市民に言論の自由や人権はない。現代中東文学では「監獄文学」というサブジャンルが成立するほどだ。シリアの人々の悲劇は、八年前の内戦で突如、始まったのではない。A・タンジュール監督の映画『カーキ色の記憶』(2016年。山形国際ドキュメンタリー映画祭最優秀賞)が描くように、そのはるか以前から、独裁下の社会で無数の悲劇が紡がれ、多くの知識人が亡命を余儀なくされていた。内戦に先立つ、この独裁の悲劇ゆえに、2011年、国民の民主化への希求は、体制側のとめどない暴力を招来することとなった。